見出し画像

金貸しの起源#02

平安時代に入って、貨幣経済が安定し始めると高利貸業が現れ始める。大半が寺社だった。借上(かしあげ)と称して「田地をもって質となし,あるいは数倍を限って契を成す」とした。

こうした高利貸業者は鎌倉中期ころから土倉(どそう乃至つちくら)と呼ばれるようになった。土倉とは土壁塗りの倉庫のことだが、担保物件を土倉に保管したことからそう呼ばれるようになったんだろう。
たとえば室町幕府の施政方針を示した「建武式目」には「無尽銭土倉を興行せらるべき事」とあるから当時(鎌倉時代)から普通に使われていた言葉だったようだ。
藤原定家の日記「明月記」中にも「土倉員数を知らず」とある。室町時代には、担保取っての銭貸し商売が充分成立していたということである。
南北朝期の京都には335軒、土倉があったという記録がある。そのうち280軒が「山門気風の土倉」で、比叡山支配下のものだった。禅宗僧侶が祠堂銭と呼ばれた。他にも日吉神社、春日神社などが管理するものを含めて、坂本35軒、奈良約200軒在りという。これらは酒屋、味噌屋など醸造業と兼業するものも多かったようだ。
室町幕府は明徳4年(1393年)に「洛中辺土散在土倉并洒屋役条々」という法令を出している。この時期になると大名、武家なども土倉を持って金貸しをしていたようだ。同時に預金業務(合銭という)や、貴重品の預かりなども行っていたという。

これらの土倉は、朝廷や幕府の府庫も兼ねており、朝廷は禁裏御倉、幕府は公方御倉という御用達の土倉を任命し、ここに金融、貢納物の出納、貴重品の管理、財産管理を行わせていた。
室町時代には金融産業として確立していたのである。

ところが戦国時代になると土倉は急速に衰退してしまう。最大の原因は貨幣経済が極めて不安定になったためであろう。モノを担保にして貨幣を渡しても、貨幣が流通する社会背景が無ければ、貨幣に意味はない。
往時の貨幣といえば武田信玄が作った日本最初の金貨「甲州金」が有名だが、これが一般に流通していたわけではない。臣下への報償/諏訪大社への献金として利用されていただけである。

余談だが、「甲州金」の話を少しする。
武田信玄が定めたルールが、以降の貨幣のルールの基礎になって行ったからである。
甲州金は「秤量(きょうりょう)貨幣」だった。甲州金は碁石に似ているので「碁石金(約60g」と呼ばれていた。この碁石金1個が「一両」。その1/4(約15g)が壱分判(いちぶばん)。その1/4が「一朱判」、さらにその1/4が「糸目判。
つまり「1両=1/4判=1/16朱判=1/64糸目判」という4進法の貨幣制度になっている。こうした秤量をベースにした貨幣制度はユニークで他にはなかった。
徳川家康は、貨幣制度の導入に当たって、多数の信玄家臣を金山衆として取り込んだが、こうした貨幣制度も積極的に取り込んだ。彼が作った慶長小判は重さが約16gで「1両=1/4分=1/16朱」という貨幣制度も、武田信玄のそれを踏襲している。

蛇足だが、天正16年豊臣秀吉が彫金師の後藤徳乗に命じて鋳造させた天正大判は重さ44匁(約165グラム)。もちろん通貨としては流通していない。武田信玄と同じく臣下への報償/寺社への献金として使用されただけである。

画像1


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました