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アジェのパリ#09/愚直にオノレの道を行く

鳴かず飛ばす・・一部の人々には驚嘆されたアジェの創作活動だったが、アジェ自身が有名になることを望まなかったこともあって、見入りは薄いまま倹しい生活が続いた生涯だった。
しかし不幸ではなかった。
痛烈な意志の強さで撮り続けたパリの風景は10000枚以上あった。実は、モンパルナスに二人で新居を構えた年に、アジェはパリ歴史図書館へ自分の作品の売込みをしている。

これが成功し、図書館は彼の写真を100枚、買ってくれた。以降、図書館は不定期だが買い続けてくれる顧客となった。そして最終的にその量は10数年で5000枚、アルバムにして7冊に及んだ。決して高額ではなかったが、これがアジェ夫婦の生活の支えとなり撮影資金の確保になったことは幸運だった。同時にこの図書館に納められた写真から、少しずつ彼は世間に知られるようになったのである。もちろん撮影者のクレジットはない。しかし彼の撮るパリは、猛烈なインパクトを持つ。決して誰にでも・・ではない。しかし一部の人の魂は大きく揺さぶる写真だ。

アジェは、毎朝暗いうちから、重い暗箱型のカメラとガラス乾板を担いで街に出た。アジェが撮るパリは早朝の無人の風景だった。異様なほど静けさに包まれたパリだ。ある意味、超現実的なパリである。

アジェは、記録としてパリを撮るつもりだったので、群集の存在を嫌ったのだろう。しかしそのことが、アジェの写真に記録以上のものを残した。マン・レイも、アンドレ・ブルトンも、ジャン・コクトーも、その醒めた冷徹な視線のパリに魅せられたのだ。
当時のアジェの名刺には以下の文面があった。
Auteur-Editeur d'un Recueil photographique du Vieux Paris(旧きパリ写真選集の撮影者-編集者)
彼自身は、歴史の記録者で有ればよい・・と思っていたに違いない。
しかし彼の撮影活動期1900~1920年は、欧州は激動の時期でも有る。
1914年6月のサラエボ事件が発端となり、25か国が参加してヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦が4年半に渡って続いた時期だ。
パリは戦場にはならなかったが、アジェは自分の作品が戦火によって破壊されることを恐れた。1920年、知己を得ていた文部省美術局長ポール・レオンに自分の作品をすべて買ってくれないか?という手紙を出した。彼は縷々と書いている。
「(パリについての)芸術的で参考資料となる膨大なコレクションは既に完成しています。私は旧きパリの映像を所有しています。 しかし私は高齢になりました、相続者も後継者もいません。この重要なコレクションが散逸し、しまいには紛失してしまうことを強く危惧しております。」
この手紙を請けてポール・レオンは2621点をアジェから買っている。
おそらくこれを以ってして、自分の仕事は終わったと思ったのだろう。以降は殆ど撮影活動をしていない。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました