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マンハッタンの思い出#01

●マンハッタンの思い出#0/吹雪のマンハッタン
1975年4月30日サイゴン陥落のあと、僕は憔悴に打ちひしがれながら、彼の地から日本へ戻った。20代半ばだった。でも。まるでぬるま湯のような大学が不愉快で、周囲の伸びきった麺みたいな奴らが「反戦・反戦」としたり顔で言いまくるのが嫌で嫌で、その年の秋にNYCへ出奔した。
まだベトナム戦争の傷が生々しい荒んだ街NYCにだ。
そしてその年の吹雪の深夜。どうしてもスタッテン島行きのフェリーに乗りたくて、タイムズ・スクェアから地下鉄に乗って、マンハッタンの南の外れへ出かけた。まだトークンが50セントだった時代のことである。時計は午前4時を回っていた。

何故そんな時間に42丁目あたりをウロウロしていたかというと、ポートオーソリティ・バス・ターミナルのすぐ裏手にあったチャイニーズ・レストランで皿洗いのアルバイトをしていたからだ。もちろん違法就労だ。夜な夜な、胼古部屋のような閉鎖されたキッチンで、限りなく積み重ねられる汚れた皿と格闘しながら過ごす何とも八方塞がりの青春時代だった。
その夜は、仕事場に入る前から白いものがビルの谷間を舞い踊っていた。
当時、僕はアッパー・ウエストサイドの94丁目にあった老朽アパートメント・ホテルで暮らしていた。そこから毎晩歩いてアルバイト先のチャイニーズ・レストランへ通っていたのだ。一張羅のMA-1の下にセレベーション・アーミーのバザーで手に入れたモコモコの古いセーターを着込んで、1時間あまりブロードウェイからコロンバス・アベニューを歩いていた。
その頃のコロンバス・アベニューの歩道といえば、碌に補修もされていないボコボコの道で、細い横露地には不気味な目つきをした浮浪者寸前の男たちがタムロしている何とも物騒な街だった。僕はその道を背中を丸めながら両手をポケットに突っ込んで、ひたすら足早に歩いて仕事場へ通っていた。
その日は夕刻から吹雪になるようなそんな気配をうすうすと感じる空模様だった。
やだなあ、帰りはきっと地下鉄を使わなければ帰れないなあ。大通りを歩きながら時々鉛色の空を見上げて僕はそう思っていた。レストランで貰える日当は、頑張って一月貯めてようやくホテル代に届く程度の簿給だったから、通勤に地下鉄を使うなんて到底出来なかった。地下鉄に乗るくらいなら、もう一回多く飯が食べたかった。地下鉄を使わなければならないような大雪はまさに生活に関わる大問題だったのだ。
チラチラと降る雪は歩いているうちに確実に少しずつ増えていた。42丁目、ポートオーソリティ・バス・ターミナルの近くまで辿り着いた頃には、既に歩道にもうっすらと雪が積もりはじめていた。

仕事場には露地裏の錆びついたドアから入る。そして壁にぶる下げられたデカい作業用の前掛けをして、山積みにされた木箱を避けてキッチンへ入る。その瞬間よりマンハッタンという街からは完全に隔離されてしまうのだった。飛び交う言葉は広東語だけ。頭ひとつ分だけ小さい男たちに混ざって、目の前に積まれた皿と格闘する。ひたすら働く。何も考えずにしゃべりもせずに交代時間がくるまで皿を洗い続ける。店の外で撃ち合いがあろうと、マリーネ・デートリッヒが通ろうと、ただ黙々と皿を洗う。世界には汚れた皿と僕しかいない。そんな錯覚に陥るような仕事場だった。
それでもその夜ばかりは急激に凍てついて行く空気のせいだろうか、ホールと繋がるドアが開くたびに、閉ざされたキッチンの中にも街に降り積もる雪の雰囲気が痛烈に吹き込んできていた。細かいダイアモンド・ミストの残滓。刺すような冷風。洗い場のシンクの前で、そんな雪の匂いを嗅ぐと、僕は何故か雪煙る闇の中にぼんやりと浮かぶマンハッタンの摩天楼の姿を幻視したような気がしてならなかった。
そのうち、老いた黒豚のような中国人の店主が肩に雪を積もらせてキッチンに入ってきた。そして「今日は大雪のせいで、まったく暇だ」という話を料理長と二人で怒鳴るように広東語で喋り始めた。僕はその後ろ姿を横目で見て、そうだ!今夜はこのままスタッテン島行きのフェリーを乗りに行こうと思った。吹雪の中、黒い巨獣がうずくまっているような、そんな摩天楼の群れを見に行こう。

時間が来て仕事が終わり、雀の涙のような日当を貰って街へ出ると。案の定、外は傘もさせないほどの吹雪になっていた。歩道はすっかり雪に被われていた。
僕は頭からMA-1のジャケットを被りながら、ビルとビルの隙間に出来た狭い露地を抜けて42丁目の大通りへ出た。この、不夜城を誇る名代のポルノ・ストリートも、流石にその夜ばかりは人影まばらだった。絶対に僕の顔を覚えようとせずに、通りかかるたびに声をかけてくる厚顔無恥なポンビキの兄ちゃんも、その夜ばかりは姿が見えなかった。
僕は足早に原色のネオン燦く42丁目の通りをタイムズ・スクエアの交差点へ向かって歩き、そのまま地下鉄へのコンクリートの階段を降りた。
当時、地下鉄は酸えた匂いの充満する落書きだらけのMD(極めて危険)な乗り物だった。深夜になると極端に運行数が減って、忘れたころに不気味な軋み音と共にホームに入ってくる鉄クズのようなものだ。唯一、24時間走っていることだけが取りえというような交通手段だった。特に深夜になると、暖を求めて浮浪者紛いの奴等が乗り込んできたり、いかにもジャンキーというやつがウロウロしていたり、とってもまともな風体の人間が安心して乗れるような代物ではなかった。
僕は深夜の地下鉄を利用するときは、必ずトークン・ブース近くの車両に乗るようにしていた。そうすれば乗客が必ず何人か同じ車両に乗り合わせているから、クレージーな奴らに酷い目に遭う確率は激減するのだ。一番怖いのは、完全にブッ飛んでる奴と一つ車両に二人だけになってしまうことである。不運にもそんな状況に陥ってしまった乗客の悲惨な末路は、友人たちから嫌というほど聞かされていた。しかし一対一でなければ大事件にはならない。可笑なことにクレージーな奴らはパワーバランスについて、驚くほど敏感だ。奴らは自分が絶対的な優位に立てなければ、牙を剥いたりはしない。
そんな風に考える人々はけっこう多くて、暗黙の了解のうちに深夜の地下鉄は乗客が寄り集まって一車両か二車両だけに乗り合わせるようになっていた。その夜もそうだった。

車軸を軋ませながら入ってきた地下鉄に乗り込むと、僕はドア近くの椅子に腰掛けた。
乗客は僕を入れても5人に満たなかった。
路線はIRT のBroadway/7 Av Local だった。終点はマンハッタンの南端サウス・フェリー。スタッテン島行きのフェリー乗り場だ。タイムズ・スクエアからは30分あまりの距離となる。この時間にこの路線へ乗り込んでくる客は、みんなフェリー乗り場へ向かう連中である。したがって途中で降りる客は殆ど無くて、終点に近づいたころには乗客も10人あまりに増えていた。
僕のすぐ傍に座ってきたのは、深夜勤務明けらしい中年の小柄な肥満した黒人看護婦だった。彼女は古い粗末な大柄のロングコートを着込んでいた。両襟を合わせて、全身が黒い毛布にでも包まれているような印象だった。しかしナース・キャプを付けたままだったので一目で看護婦だと分かった。彼女は放り出された南京袋のようにドサッと座席に腰掛けた。そして強くこめかみを押しながら目を閉じて不機嫌そうに俯いたまま頭を振った。
その後に乗ってきたのも黒人だった。
深夜勤務をこなす低額所得者たちにとって、地下鉄は生命を支える大動脈である。ジャンキーが乗ってこようと、浮浪者がうろつこうと、これを利用せずには生きてはいけない。牡蠣のような沈黙に沈み、荒んだ危険に身を晒しながらも、仕事に疲れ切った重い身体を引き擦りながら毎夜地下鉄に乗り、帰途へ付くのだ。それもスタッテン島からわざわざサウス・フェリーを利用してまでマンハッタンへ渡り、仕事をするわけだから、その難渋は計り知れない。夜な夜な長い通勤時間の間、危険と疲れに首まで漬かる人生である。
地下鉄の車両の中がどれほど明るくても、車内の雰囲気は深海のように昏かった。
地下鉄サウス・フェリーのホームは前5両しかドアが開かない。小さなホームだ。そのくせ地下深くホームが設営されている。エスカレーターは停っていた。仕方なく長い階段を昇って地上に出ると、ドアを開けた瞬間に、まるで白い鉄拳のような吹雪が突風となって僕の頬を叩いた。一瞬、目の前が真っ白になる。
僕は小走りにサウス・フェリーの待合室へ入った。
だらっと広いサウス・フェリーの待合室は白々とした蛍光灯が猛烈に寒々しかった。スチームの暖房もほとんど役に立たっていない。中央に並んだ椅子に腰掛けている人も数人しかいなかった。そしてその全員がまるで真冬のセントラルパークのリスのように丸く縮こまっていた。どうやらフェリーの利用客は地下鉄から昇ってきた我々が中心らしい。
待合室の正面壁に備えつけられた時計が次のフェリーの到着時間を示している。あと15分。僕は壁際に寄って、窓の外の吹雪の様子を見ながらフェリーの到着を待った。

氷片のような雪が窓を叩いていた。サラサラ、サラサラ、という乾いた音が仄かに聞こえた。その窓の向こうに何台かの市営バスが停まっているのが見えた。サウス・フェリー乗り場の前の広場がバスターミナルを兼ねていたので、いつでもそこには何台かの市バスが停車しているのだ。すべてのバスが寒さを吹き飛ばそうとするように晧々と室内灯を点けていた。しかしその様子が吹雪の中では余計に寒そうだった。
マンハッタンの冬は厳しい。
真冬には辛い夜を越せずに凍死する浮浪者が毎日のように出る。廃屋に暮らす失業者たちの指や耳を、凍傷が容赦なく奪う。一枚の毛布への羨望が撲殺の衝動へ繋がる。もし職を失えば明日は我が身というような話ばかりだ。
僕が住んでいるホテルの裏手には、ハドソン・リバーに向かって幾つもの無人のビルが並んでいる。その閉鎖されているはずのビルの横露地から、そんな浮浪者たちがヨタヨタと出てくるところを、僕は何度も見ていた。
窓打つ雪の音は、死神の嗤い声なのだ。
僕は痛いほど身にしみていた。臨時雇いの皿洗いとはいえ、もし定期収入となる仕事を失ったら。吹雪の中、僕は何処かのビルの暖房排気口の傍に浮浪者として震えながらうずくまるにちがいない。あるいはそうした廃屋の中に潜り込まなければならなくなる。まちがいなく、文字通り路頭に迷うのだ。そんなことになればこの閑散とした薄ら寒い待合室にさえ入れてもらえなくなる。吹雪の夜明け前に雌伏する摩天楼の黒い影を見たいなんぞと寝ぼけた呆言も言ってられなくなるのだ。
死神の嗤い声の下に身体を丸めてうずくまる。その幻想に僕は大きく身震いをした。

その時、夢想を破るように割れた音の場内放送がフェリーの到着を知らせた。
そして同時にフェリーと繋がる通路の重い金属製の引き戸がゴロゴロと音を立てながら開きはじめた。待合室で泥のように沈んでいた人々がゆっくりと、そちらのほうへ歩きはじめた。僕もその黒い影のような人々に付いて暗い洞窟のような通路を抜けてフェリーへ乗り込んだ。そして入口近くの木製のベンチへ座り込んだ。
当時、フェリーの中にも地下鉄に乗ったときのような、あの酸えた匂いがどことなく漂っていた。ニューヨーク湾の潮の香りで希薄にされていたが、街のどうしようもない荒廃の匂いは此処にも確実にしみ込んでいたのだ。
吹雪に海が時化ているらしい。フェリーは大きくローリングを繰り返していた。
やがて船がゆっくりと桟橋から離れはじめると、ローリングはさらに大きくなった。僕は真っ直ぐキャビンへ出た。
マンハッタンを向いたキャビンは、ちょうど風下になる。
キャビンに立ち尽くしても吹雪は当たらなかった。フェリーの速度は意外なほど早いのだ。吹雪を切ってニューヨーク湾をスタッテン島に向かって邁進する力強さは感動的なほどだった。
キャビンから見つめていると、吹雪はまるでマンハッタンを叩きつけるように荒れ狂っていた。直線的に。絡むように。円を描いて。雪片はマンハッタンの暗闇へ次から次に吸い込まれていく。風の音がキャビンに鳴り響いた。僕は雪のスペクタクルと、摩天楼の黒い影の群れに呆然とした。これほど激しい吹雪の中でもマンハッタンの屹え立つ摩天楼のシルエットは、きっちりと確認できるのだ。自然の暴虐に晒されながらも尚、この古代生物のような建造物の群れは泰然と微眠み続けているのだ!
僕は、ぞーっとするほど感動した。そこに「自然に克つ」という強烈な都市の意志を感じたからだ。街は負けない。誰にも。不倒の意志が街の意志なんだ。

猥雑で醜悪で腐敗して。アリみたいな人間が無数に集まって閉塞状態に荒廃して。妬みあい憎み合い、憧れて夢中になる。志に燃えて挫折し、あるものは凋落し、あるものは傲慢と化す。青春と老衰。赤貧と浪費。獣欲と神性。地下鉄。レストラン。老朽ホテル。ジャンキー。荒廃した無人ビル。浮浪者。売春婦。ジャズ・クラブ。かっぱらい。次から次にあらゆるイメージが吹雪のキャンバスの上に湧き上がった。
しかしフェリーが急速にマンハッタン島から離れていくと共に、そんな瑣末の全ては吹き飛んで、街の「それでも生き残る」という意志が見えるだけになってしまった。
寒さに震えながら、僕はどんどんと遠ざかっていくマンハッタン島を見つめ続けた。この風景を見るために僕はこの街へやってきたに違いない。僕はその時、そう確信した。
暴力的なほどの極寒が急激に体温を奪い、僕はガタガタと震えた。それでも黒い闇の中に鬱蒼と立ち並ぶ摩天楼の黒い群れからは絶対に目が離せなかった。
しばらくすると、そのシルエットも雪の中に沈んだ。目の前は吹雪に荒れるニューヨーク湾だけになってしまった。僕は船内に戻った。
ふと、地下鉄で見かけた黒人看護婦と目が合った。彼女は「やれやれ、またジャンキーだ」と言わんばかりに頭を横に振って、僕から視線を外した。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました