見出し画像

ヴェニス れきしものがたり: 街を散策しながらヴェニス1000年の歴史を幻視しよう Kindle版

ヴェネチア共和国の中に「貴族共和政」とも言うべきものが発生したのは中世後期からである。この"貴族"という概念だが、どう考えても"ヴェニスの商人的"ではない。ヴェニスの商人は、本人が交易船に乗り込み商売の前線に立つ人々だからだ。かなりの豪商でも、原則的にこのスタンスで商売をしていた。陸(ヴェニスの町)にいるのはリタイヤした者/女子供/あるいは作業者だけだったのだ。
しかし商業国家として巨大化し、体裁を整える中で大評議会Maggior Consiglioがきわめて強い位置を持つようになると、これを維持するために常時ヴェニスの町へ居なければならない人々"セッラータSerrata"が必須になっていった。
このセッラータだが。特定家系の世襲制になっていった過程をみると、どうもそこに利権乃至特権の独占とも云うべき気持ちが、当初は絡んでいなかったように思える。
大評議会への参与は名誉職であり、怠勤についての厳しい罰則は有っても、得られる利は殆ど無い・・というものだったからだ。したがって相当裕福な一族しか、極論すると有閑な人しかセッラータSerrataにはならない/なれない・・という処から始まったように思える。
こうした有徳な人々を、豪商とは別に「貴族aristocrat」と呼ぶようになったのではないか?僕はそう思ってしまう。

しかし寡占的支配は必ず腐敗する。ヴェネチアでもこの原則は変わらない。
当初、貴族となった一族の男子は等しく参政権を持ち平等に国家管理のための要職に就いてた。これが門閥的構造になっていったのは1400年代からである。
背景にはオスマントルコの台頭があり、海上交易に大きな陰りが出てきたことで、豪商間の収益格差が深刻になっていったことがある。目端の利く豪商たちは、土地所有へ自分たちのビジネスの支柱を移した。再投資額が小さい、事業として安定的なビジネスへシフトしたのだ。
最も地主化したのが、大評議会Maggior Consiglioを独占していた"貴族"だった。
彼らは、立法者であり行政者であり司法者である。戦果によって得られた土地を自分たちの中で分配するのは簡単だったからだ。
こうして貴族たちは海運という伝家の宝刀を蔑ろにして、急速に地主化した。そして土地所有が常態化すると、彼らの気質に大きな変化が現れるようになっていく。欧州の士族から派生した貴族たちに相似していくのである。商人ではなく利権者に変質していく。
しかし周辺諸国は、地主化した「貴族」を惰眠することを許さなかった。

1508年、ローマ教皇ユリウス2世はイタリア北部におけるヴェネチアの影響力を払拭するため、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン王フェルナンド2世との間に反ヴェネチア/カンブレー同盟を結成した。そして存亡を賭けたカンブレー同盟戦争(1509-17)が始まってしまう。ところがオスマントルコとの間に断続的に続いていた戦争のために、ヴェネチア政府は財政難に陥っていた。
その苦肉の策として考えられたのが官職の売買である。
・・国体保持のための戦争遂行である。政府は、多額の資金提供を行った者に対して、政府は元老院議員資格を与えると宣言した。続いて大評議会議員資格。官職被選出権などが販売され、1516年にはドージェに次ぐ最高官職であるサン・マルコ財務官までもが販売されるようになった。
その集まった資金で、カンブレー同盟戦争は辛うじて勝利に終わったが、量産された官職は「議員たちの若年化」という思いも付かない現象をもたらした。
売官料を払い要職についたのは、殆ど全員が豪商の子息だったのだ。
商人の子だが、商人ではなかった。官僚となるべく育てられた子だった。
つまり戦争遂行のための官職売買は、確かに寡頭政のもつ金権政治的な性格をいっそう強めたが、同時に権力の中枢にかかわる人々の数と質を著しく高めたのである。
例えば、1500年代半ばに実施されたサン・マルコ地区の大幅な都市改造計画は、ヴェットール・グリマーニとアントニオ・カッペッロの二人によって行われているが、彼らは何れも20代でサン・マルコ財務官の要職に就いている。

そして1537年のプレヴェザの戦い。1571年のキプロス戦争。
続けざまにヴェネチアは総力戦に巻き込まれていくが、その中要所要所で活躍したのは、彼ら売官によって要職に就いた若者たちだったことは特筆すべきだろう。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました