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金貸しの起源#01

1931年3月の「時事新報」にある「質の起源は詳かでないが文献として初めて現れたのは孝徳天皇の大化二年の詔勅である。」気になるので調べてみた。

「孝徳紀」の「改新の詔」大化二年三月癸亥朔辛巳条ですな。「詔東國朝集使等曰 宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻 以其屯田班賜群臣及伴造等 又於脱籍寺入田與山 」とある。
「養老令」では"出挙(すいこ)"になっているが言ってることは同じ、貸し稲のことである。ちなみに挙を"こ"と読むのは呉音。
ここに出てくる「官司處々屯田」とは天皇家直属の田であるということ。此処で収穫された「稲穀」は「屯倉」に収納されたのち中央に送られた。それに続く「吉備嶋皇祖母處々貸稻」の"吉備嶋皇祖母"は斉明天皇の母堂で「書記」に(ちょいとだけ)その名前がある。しかし"處々"とあるから相当そこいら中に田畑を持っていたんだろうね。有力者だったことが窺い知れる。・・ついでに出自を追ってみると・・父は茅濡王で、書紀「改新の詔」で「皇祖大兄」という敬称で呼ばれている彦人大兄の子である。
「皇祖大兄」の"皇祖"とは言うまでもなく天孫降臨のスーパースター瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である。瓊瓊杵尊の兄貴だったという事だ。吉備嶋皇祖母は彦人大兄の資産の継承者で孫娘(妻という説もある)にあたる。とんでもない家系だね。
・・ちなみに
「大化二年三月癸亥朔壬午。皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉』。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」
とあり、彦人大兄は時の天皇家に資産の大半を「献」するよう命じられている。相続ではない。つまり時の天皇家は瓊瓊杵尊の親族ではなかったということだ。親族なら献上させる必要はない相続すればいいだけだ。
・・あ。このへんで止めとく。でないと"天孫降臨"した征服者たちが、何処へどうやって拡散していったか話になってしまう。

貸稻/出挙とは、春の耕作前に稲を貸し出し、秋の収穫時に利息と共に返済させるというシステムである。官からの貸し付けは"公出挙"と云い。私人が行なうものを私出挙と云った。利率は、公出挙で五割、ときに三割、私出挙は十割というのが一般だった。もちろんその根底には「班田制」があった。
「班田制」は藤原不比等が唐から持ち込まれた班田制度を真似て制定したものだ。民を村落に定住する水稲耕作民として規定し、これに戸籍を造り(編戸造籍)それに基づいて計帳を作製し、班田収授(税)取るという方法だった。
つまり「定住者」に対して、信用し「稲を貸した」のである。
システムとしては、いまのサラ金と同じ。サラリーマンなら金貸しましょうという論理である。
今も昔も変わらない‥

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました