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アメリカンポップス成立前夜03/差別と大衆音楽

失意と共に逝ったスティーブン・フォスターは、歌曲と器楽曲を合わせて286曲残した。このうちヒットと言えるのは25曲。最大のヒット曲は「おおスザンナ」であろう。そして「故郷の人々」「スワニー河」あたりか。これらは、ミンストレル・ショーで使われた。
ミンストレルショーは、都市部で興行された大衆芸能のショーである。寸劇有り/歌有り/チョットした曲芸もあった。もともとミンストレルminstrelとは、英仏の王宮に出入りしていた芸人・道化師を指す言葉だが、これがアメリカ連邦では大衆芸人たちを指す言葉として使われた。

ミンストレルショーは先ず、ニューヨークから芝居小屋として始まり、西進し地方都市へ広がった。当時、中西部へは、旅芸人たちがしばしば興行へ出た。それはサーカスであり、メディスン・ショーであり、歌と芝居をヴォードビル・ショーだった。
メディスン・ショーはその名の通り薬を売るためのキャラバンで、彼らは客集めに必ず様々なショーを行った。もちろん彼らが売る"薬"とは、かなりアヤしいものばかりで、ここから「フラボノ効果」の語源となる偽薬フラボノが生まれている。それとソーダ・ファウンテン。これは炭酸が医薬効果があるとされていたので、彼らはこれを盛んに売った。ちなみに、その派生として「コカの葉」と「コラの枝」の成分を絞って入れたという「コカ・コーラ」が生まれている。コカ・コーラ社は第二次世界大戦まで、その精力剤としての幻想を否定しなかった。兵士たちは「元気になる強くなる」と思いながら、それを飲んだのである。

こうしたドサ廻りの芸団に、ミンストレルショーの芸人たちは早くから入り込んでいた。どうしても都市部での芝居小屋は数が限られる。溢れた芸人たちは中西部へ旅へ出たのだ。
彼らの芸の中心は、歌と踊りだった。
ミンストレルたちは顔をコルクを焼いた煤を水で溶いたものを顔に塗ってステージに立った。そして黒人たちの真似をした。訛った英語でバカなことをいう「アタマの悪い黒ンボ」を演じた。客はコレを見て抱腹絶倒した。芸人たちは、黒人たちの楽器バンジョーを使って黒人風の唄を唄った。もちろん本当の黒人がどんな歌を唄っているか、彼らは知らない。なので旧いアイルランドの民謡に別の歌詞を付けて唄ったり、スティーブン・フォスターのような新進作曲家が作った曲を唄っていた。
なぜアイルランド古謡か?
彼らの多くがアイルランド北部にいたスコッチ・アイリッシュだったからだ。
なぜスコッチ・アイリッシュだったか?
もともと北アメリカ東海岸部に作られた英国植民地は、英国国教に奉ろわぬプロテスタント/ピューリタンを棄民する地として利用され、それが拡充し育ったところだったが、1700年代後半になると本国英国でアイルランド地区の開発が進み、その北部にいたスコッチ・アイリッシュが邪魔になり、英国王政府は彼らを1600年代にプロテスタント/ピューリタンを棄民した時のように、新大陸アメリカへ棄民したのである。こうして1700年代半ばから大量のスコッチ・アイリッシュが米国へ強制移住してきたのだ。
しかし彼らが流れ着いた北米東海岸は殆ど開墾が終わっていた。仕方なく彼らは町で流浪する民(芸人・日雇い)になるか、遥か西のアパラチア山塊へ生活の場所を求めるしかなかったのである。

さて。北アメリカ大陸だが。遠景で見つめると、二つの長い山脈が此の地を三つに分けているのが判る。
ロッキー山脈が西海岸を別ち。アパラチア山脈が東海岸を別つ。そしてその間が中西部。もう少し詳しく見ると中西部はミシシッピー川によって、以西/以東に別れているのが判る。いまでもアメリカ合衆国は三つの時間帯を持つが、これを産み出すきっかけはこの二つの長く険しい山脈である。

英国からの植民者にとってこのアパラチア山脈が、北米東海岸作られた13植民地の最西端だったのだ。
アパラチア山脈は険しい。その険しい地へスコッチ・アイリッシュは移植を余儀なくされた。他に土地が無かったのだ。しかしその開墾は困難を極めた。厳しい環境とインディアンとの闘争に明け暮れたのだ。その中でブルーグラス/ヒルビリーなどのカントリー・ミュージックが生まれて行った。

このスコッチ・アイリッシュの出自についても触れなければならない。彼らは元々スコットランドに暮していた農民だった。英国王が自分の都合から、勝手に英国国教なるものを作り上げ「余が教皇である」であると言い出した時、これに強く反対したプロテスタントの人々が英国内に多くいた。英国王は彼らを捕え、すべてアイルランドの北部辺境地へ追いやったのだ。
しかしアイルランドは既にカトリックたちが住みついていた。そこに強制的にプロテスタントたちが移住させられたのだ。両者間の確執は酷かった。スコッチ・アイリッシュは塗炭の苦しみを味わった。そして何とかそれなりに生活が安定し、開墾が終わると、その地を英国王は狙ったのである。彼らは再度追われて新大陸へ渡ったのである。
その経緯を見ても、彼らが如何に反骨的で異様な集団だったかが窺い知れる。アパラチアの山奥に入って、血塗れの開墾を為した彼らの偏屈さ偏狭さは、よほど英国からの既存植民者から異様に見えたのだろう。スコッチアイリッシュは徹底的な差別の対象になった。

アメリカは、白人同士の中でも民族的な差別はある。最初、スコッチ・アイリッシュは徹底的に差別された。継いでアメリカに入植し始めた南イタリアの人々も無教養嘘つきとして差別された。継いでジャガイモの根腐れ病で大飢饉に襲われて新大陸へ逃げてきたアイルランド人も差別された。欧州から流れてきた東欧の人々も同じだ。
貧困は、より差別を産み出す。かれら被差別白人は徹底的に黒人を差別した。
その差別の中から、顔に炭を塗り黒人の真似をしながら面白可笑しく唄って踊るミンストレル・ショーが生まれたのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました