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ナダールと19世紀パリ#14/1855年パリ万国博覧会

ナダールの悪弟エイドリアンは、この写真アトリエで働いていた。何も隠そうとしないナダールは写真技術の全てを彼に教えた。エイドリアンは黙々と技術を習得した。
ナダールの写真が1855年万国博覧会パリに展示され、大評判になると、エイドリアンは居ても立っても居られなくなった。ナダールの助手という立場が我慢ならなくなった。なぜ兄なのか、なぜ私じゃないのか。写真技術さえ駆使すれば、俺は兄と同じ程度の写真が撮れる。彼はそう思っていた。・・そう。たしかに撮れる。だが、兄ナダールのような優しいしかし醒めた視線で被写体に向かう強靭さは、彼にはなかった。光と影さえあれば精緻な画像は作れる。・・撮れるだけなことに、撮れてしまうが故にエイドリアンは気がつかなかった。それでも彼は独立したがった。

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1955年の終わり、エイドリアンは兄の了解を得た上で、ナダールの写真アトリエのすぐ傍で自分のアトリエを立ち上げた。スポンサーは、兄と共通の友人、音楽家ジュール・レフォールとレフェ・ブレウェリーだった。二人は弟エイドリアンを独立させることで、ひと商売と考えたのだ。そのために、エイドリアンもナダールと同じく「ナダール」を名乗るように指示した。
ナダールは、フレドリック・ナダールの本名ではない、本名はガスパール=フェリックス・トゥールナションGaspard-Felix Tournachonと言う。ナダールはニックネームだ。
ナダールがパリへやって来たばかりの頃、会話の最後に「ナダール」を付ける言い回しが流行ったことがあって、ナダールがそれを連発していたために、トゥールナションではなくナダールと呼ばれるようになったのだ。・・つまりナダールは固有名詞ではない。だれが使ってもいいはずだ・・というのがエイドリアンのスポンサー2人の言い分だったのである。
「ナダールと名乗れ」と焚きつけた。ナダールの名前で無いと写真は売れない!と。こうしてエイドリアンは唐突にNadar Je&Co icと名乗った。
顧客は混乱した。元祖ナダールのすぐ傍らに本家ナダールが突然出来たからだ。

ナダールは激怒した。しかしエイドリアンには積年の逆恨みがあったから、兄の抗議を完全に無視した。この兄弟喧嘩は裁判にまで発展した。結局裁判は兄の勝訴となりエイドリアンの会社は名前をTournachon Jne&Co ieに変えらざるを得なるのだが、これをきっかけら二人の仲は犬猿となってしまった。
ナダールと同居していた母は心痛めた。その母が1860年に亡くなったことで、少しだけ二人の関係は修復されたが、エイドリアンの腹の中を知ったナダールは、二度と弟に心を許すことはなかった。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました