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銀座新古細工#09/消えた戦後の残り香のこと#01

日劇の地下に「ホワイト」という床屋があった。オヤジさんが母の旧知でガキの僕の頭は此処で刈ってもらった。ヘンな坊ちゃん刈りじゃいし、子供に有りがちなテキトーな刈り上げでもなかった。品のよい仕上げだった。
母は「見かけ」にこだわる人だったからね。「人は見かけだよ。見かけもマトモにできないような大人になるんじゃないよ」といつも言われていた。
神田の製本屋の娘で、そうとうおきゃんだったらしい母の、下町育ちの心意気だったのかもしれない。
子供は"小さい大人"母はそう思っていたに違いない。

いつも思うんだけど、山の手と下町とは子供の立ち位置が違うんじゃないかな。
山の手は「子供」という形式があって、子供はその中に納まらなければいけない。それは「家」がそれぞれ自立して存在し、家庭の営みの中に「ウチとソト」がはっきりしていて、子供社会もそのルールに則っているからなのかもしれない。
下町は違う。「ウチとソト」が5月の鯉のぼりのように抜けている。
仕事から帰ってきた亭主が晩飯のちゃぶ台の前に座るとスイトンが出てくる。
「なんでぇ、今日は飯はねぇのか」
「となりの若夫婦がね、ご飯借りに来たからあげちゃったのよ」
「そうかぁ、しょうがねぇな。若いもンは飯食ったほうが良いもンなあ」
なんて会話が普通にあった。
僕も一人暮らしをするようになって、長屋のひと部屋を借りたとき、出かけてる間に雨が降ってきて、帰ったら干していた洗濯物が綺麗に無くなっていた。びっくりしてたら隣の叔母さんが、僕の姿を見て出てくると「畳んどいたわよ」と届けてくれた。
そんな風に下町は「ウチとソト」が5月の鯉のぼりのように抜けてる。
それを良いとするかウザいとするかは別だ。

それはきっと、江戸の長屋事情から生まれた文化なのかもしれない。江戸の・・いまの中央区辺りの・・長屋は9尺2間の割長屋がスタンダードだった。
9尺2間と言えば3坪だが、そうはいかない。座敷は江戸間で4畳半くらいなものだった。ここに夫婦親子が寝起きする。壁は、戸板だか簀の子だかわからないくらいで、釘刺したら隣のウチの仏壇の仏様の喉に刺さったってぇくらいだった。
そんな寄り合い長屋に、山の手のような"ぷらいばしー"なんて横文字は転がってるわけもないというわけだ。あ・・日劇の下のこと話そうと思ったのに・・とっチラッかっちゃった。 

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました