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カリブ海/象徴としてのサンマルタン島09-おわりに

1902年のペレ火山の大爆発で、サンマルタンのプランテーションは何れも致命的な被害を受けました。フランス政府からの援助を受けながら、何とか復興を果たしますが、これ以降大規模産業は、島から姿を消してしまいます。
その本国からの救済の経緯を見ていると、ハイチ・ドミニカ・キューバなどの独立国が、1950年代まで茨の道を歩んだことに比べ、無理やり独立するという道を選ばす、旧宗主国に留まったサンマルタンの判断は正しかったのかもしれないなと考えてしまいます。。

サンマルタンは1939年、自由貿易・免税港を宣言します。これによって外資に大きく門戸を開き、自給自足型から脱却、新型経済の発展を目指しました。そして第二次世界大戦に突入、この海域はUボートが走り回る「Uボート銀座」になってしまいます。自由貿易港どころの騒ぎじゃない・・
この第二次世界大戦時に、Uボート対策として、アメリカ軍が、現在の国際空港セント・ジュリアナの前身を造営。戦後、これら設備すべてが、滑走路ごとサンマルタンに引き渡されました。

こうして戦後を迎えると、サンマルタンは観光地としてアメリカからもヨーロッパ各地からも注目されるようになり、たくさんの人々が訪れるようになります。大型飛行機が離着できるセント・ジュリアナ空港は、欧米からの直行便が可能です。軍用空港として作られたことが威力を発揮したのです。
大量の観光客が使うお金で、島は潤い、戦前は5,000人程度しか居なかった住民も40,000人程度まで急増しました。
現在でも、サンマルタンで暮らす大半の人は、何らかの形で観光産業に従事しています。

しかし、サンマルタンはハリケーンの通り道でもあります。
1995年、サンマルタンを襲ったハリケーン・ルイスは、島に甚大な被害を与えてしまいます。そのため一時的でしたが観光客が激減して、島には失業者が溢れかえるということがありました。
観光客と爆買いに支えられている国がぜい弱なのは、何れも同じです。
この衝撃は、今でも根強く、島の人々は昔の話をするときに「プレ・ルイス」「ポスト・ルイス」という言い方をします。

きっと日本国も早晩「プレ・コロナ」「ポスト・コロナ」という呼び方をするのかもしれないですね。12兆円に及ぶインバウンドによる売り上げは相乗的な売り上げをその5倍ほどもたらしています。観光客を失うことが如何ほど危機的な事態へ日本を追いこむか?推して知るべしです。
では、観光客の誘致に向けて日本国は全知全能を傾ければいいのか?これも違いますね・・・。
地場産業が確立しにくいサンマルタン島は、今後とも観光に産業資源を追い求めることになるでしょう。しかし、知財資財人財とも豊富な日本国は、他の新しい道を模索することが可能なはずです。
そして今こそ、"戦後"を引き摺った加工貿易からも脱却すべきなのです。

戦後の日本経済の驚異的な発展は、日本が米国の核の傘の下に入り、自国で軍隊を持たなかったからです。軍の維持はGDPの20%を消費する。日本はそれをすべて経済発展に注ぎ込んだのです。そして朝鮮特需/ベトナム特需が日本の基幹産業(トヨタ・ニッサンなど)を産みだし、それにブル下がる地方地場産業を産みだしました。その幻想が消えて20年経ちました。地方地場産業は凋落し切っている。インバウンドと無謀な円の増刷が、その後の日本を支えましたが、それも終わった。
では??・・では??なにを産業の核に置くべきか?これは官民一体になって、それこそ熱が出るほど考えるべきテーマです。
サンマルタンの近未来を想いながら、僕は来るべき日本の近未来を考えてしまいました。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました