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カリブの殺戮者コロンブス

中世の収斂は、世にも残虐な男コロンブスの航海から始まります。
南アメリカ大陸とカリブ海に広大なサトウキビ・プランテーションが作られたことで、欧州経済は激動し時代が大きく変わるのです。したがってサトウキビ・プランテーションとは何だったのか?これについてきちんと理解していないと、大航海新大陸発見以降の欧州史は取り違えてしまう。
そんなカリブ海であったことの話を、今回は少ししましょう。同地を訪ねた時の話を交えながらです。
先ずは発見者「コロンブス」のことから。

アメリカの教科書の中に登場する「アメリカ大陸発見者コロンブス」国民的英雄です。日本もこれに倣う。
多くの子供向けの読み物は「あるところに海を愛する少年がいました」的に始まる。そして帰国報告について「国王と女王が黄金とインディアン(奴隷として連れてきた)を目にし、コロンブスの冒険談を聞いて驚かれました。そしてみんなで教会に行き、祈りと歌を捧げました。コロンブスの目には涙が溢れていました」と書く。
ちなみにコロンビア百科辞典のコロンブスの項にも、彼と彼の仲間が行った残虐行為については一言も触れられていません。
同地における奴隷制や強制労働、レイプ、殺人、人質、ヨーロッパからの病気の蔓延、先住民の大量減少について書かれていますが、それが誰によって始められたかは全く触れられていないのです。
驚きです。
その辺りから話し始めます。

既に大西洋の向こうに大きな大陸が有ることは、一部の船乗りの間では伝説に近い形で知られていました。
それを「インドであろう」と決め付けた男がコロンブスです。スペイン女王をスポンサーとして、彼は西へ向けて、命がけの・かなり無謀な航海の末、カリブの島に辿りついています。・・しかし得るものは殆ど無かった。香辛料も黄金も金銀財宝もない点々と並ぶ原住民が魚を獲って暮らす島々だったからです。
コロンブスは焦った。スペイン女王とスポンサーたちには金銀財宝を山のように積んで戻るとて約束していたからです。しかしスペイン女王は思ったほど怒らなかった。大西洋の向こうにある大きな大陸が伝説でないことを確認し、発見国であるスペインの領地になることで、ある程度の成果と見たからでしょう。
その帰国接見の折、コロンブスは「同地ならサトウキビの栽培が可能である」という提案を女王にしています。土地も、豊富な労働力もあると。
実はコロンブスの女房は、カナリア諸島に有るサトウキビ畑の娘でした。サトウキビの栽培が如何ほど儲かるかを彼は知悉していたのです。そして二回目の航海のとき、彼はサトウキビを持参して旅に出ています。
こうして、カリブ・西インド諸島/南アメリカの悲惨なサトウキビ・プランテーションが始まります。
サトウキビ栽培は重労働です。仕用されたものはバタバタと死んでいきます。その穴埋めにアフリカ象牙海岸で黒人を買い、これを奴隷として酷使するというサイクルが発生するまでは100年を必要としなかった。

では。再度カリブ(エスパニョーラ島)へもどったコロンブスが何をしたか。
彼は、そこがインド大陸の一部であると信じ切ってましたから(彼は生涯そこがインドだったと思っていました)憑かれたように伝説の黄金を求めました。女王にはサトウキビの話をしましたが、そんなことよりすぐ手にはいる黄金を求めたのです。
コロンブスは航海のスポンサーに向けてこんな手紙を書いています。「彼らは立派な召し使いになるだろう。手勢50人もあれば彼らを一人残らず服従させられるし、望むことをなんでもやらせることができる」と。
実際にコロンブスは島民を捉えると、黄金を彼のもとに持ってくるように命令しました。

伝記作家サミュエル・エリオット・モリソンはこう書きます。「この身の毛のよだつような制度を誰が考えたにしろ、輸出用黄金の唯一の産出方法として、コロンブスがそれを実行に移したことに疑いはない。山に逃げたものは猟犬に追われ、たとえ逃げおおせたとしても餓死あるいは病死した。また、絶望した先住民はその惨めな生活に終止符を打つために毒を飲んだ。コロンブスの制度によって、地上の楽園だったエスパニョーラの急激な人口減少が始まったのである。民族学者の推定では、元々30万人いた先住民のうち3分の1が1494~96年の2年間に死亡したという。1508年には残った先住民の数はさらに6万人に減り、1548年には生存者が500人いたかどうかも疑わしいとされている」
エスパニョーラ島にはコロンブスが建てた絞首台が340有ったと云う記録が残っています。黄金を見つけて来いという命令が果たせなかった者は、腕を叩き斬り、そして最後は吊るし首にしたのです。
しかし、どうしても黄金は集まらなかった。しかたなく彼は島民を奴隷として売ると云う商売を思いついた。彼の妻の実家であるカナリア諸島のサトウキビプランテーションでは既に奴隷が売り買いされていたからです。
彼は、500名の島民を捉えると、これを船にぎっしり詰め込んでスペインへ送りました。航海の途中、飢えと病気のため半数が死んだと云います。それでも1498年9月のコロンブスの日記には「三位一体の神の御名において、売れる奴隷という奴隷をどんどん送り続けよう」とありますから、幾ばくかの金にはなったに違いありません。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました