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黒海の記憶#28/ローマによるバルカン半島の支配

バルカンケルトは、気質的に奉ろわぬ民だった。いまでもそうだ。最盛期のギリシャ諸都市は同地に幾つもの移植地を置いて交易と武力をもって支配していたが手を焼いていた。自分たちが東方との戦いで弱体化していくと、次第に各植民地も形骸化し武力による威圧も成立しなくなってしまった。バルカンケルトも無知粗暴な原住民ではなく、戦い方をギリシャから学んだ充分ギリシャ諸都市に対抗しうる勢力になっていたのである。
このバルカンケルトの出自だが、それを追うと、遥か旧石器時代にまで及んでしまう。
とても興味深い人々だ。
同地は、ヒトがヨーロッパ全体に拡散していくときに通ったルートである。山間部が多く、天敵が多い「裸のサル」にとっては、恰好な住処だったのだ。なのでその血を追うと遥か旧石器時代にまで辿ることになる。
実は新石器時代、中東で始まった穀物を栽培する文化/家畜を育てる文化も、このバルカン半島を通してヨーロッパに広がった。地勢的にそういう場所だったのだ。そして東方の遊牧民たちもゲルマン/フン族らも、同地を通過してヨーロッパへ入ったのである。現在のバルカン半島の無数の血の輻輳は、おそらくその辺りが原典だろう。

その最初の道筋を、僕らは「スタルチェヴォ文化Starčevo culture」「ヴィンチャ文化Vinča cultur」によって辿ることができる。ヴィンチャ=トゥルダシュ文字は、人類最古の文字だ。ちなみにラディボエ・ペシッチRadivoje Pešićは自著の中で、このヴィンチャ=トゥルダシュ文字こそエトルリア文字の原型であり、エトルリアの出自はバルカン半島であると言っている。
ついでに余談だが、ヴィンチャ土器は驚くことに縄文土器に酷似している。
https://www.abovetopsecret.com/forum/thread1023067/pg1

興味深い。・・僕はハンガリーのネメスヴァモスにあるVilla Romana Balacaでそれに出会った。
確かに驚嘆するほど、縄文土器に似ていた。ヴィンチャ文字も解説を読まないでいればインダスのそれと全く区別がつかないものだった。
実は、その強い念とも言うべきものは、ピレネーを暫らく歩いた時にバスクの人々にも感じた。「エウロパの血」である。ラテン人でもない、ゲルマン人でもない、原始から続く強い鼓動である。

ローマの商人たちは、こうした人々と通商を始めていた。ギリシャにはそれを阻止するだけの力が、その頃にはもうなくなっていた。黒海周辺の疲弊していた植民地そのものが、商売相手としてローマを熱心に受け入れていたのだ。・・それでも可能な限り摩擦を起こさないようにギリシャはローマと接していた。しかし慢心するポントスがその関係を脆く砕いた。反ローマだったコリントがBC146年に堕ちることで、一気にバルカン半島とアナトリアの西半分は自主性を失い、ローマの属州になっていくのである。
同地を我が領土としたローマは、ギリシャ人と同じように奴隷と農作物を求めた。しかし瘦せた土地である。ドナウより北へ行かない限り台地からの豊饒な恵みは得られない。黒海を出口とするドナウ川の河口が、ギリシャの時と同じようにローマにも重要なロジスティックの拠点になっていったのは致し方ないところだろう。ローマの商人たちはドナウ川を遡りさらに北へとマーケットを広げていった。この北へのマーケットの漸進がギリシャからローマへ黒海の支配権が移ったことの大きな転換だったと言えよう。ローマが北のケルトの文化と文明を大きく進化させたのである。同じことがローヌ川を遡ってソーヌ川/ライン川に至っている。ラテーヌLa Tène cultureの人々とはかなり早い時期に出会っているのだ。

しかし・・こうした属州の拡大が、ローマの共和政を形骸化させていったのは何とも皮肉だと言えよう。支配者→被支配者という構造は、必然的にローマを帝国へと変えてしまうのだ。共和政ローマは、ローマ帝国に変っていく。「剛健質朴・勤倹質素」という農夫的な資質を保持し続けてきたローマ人は「華美柔弱」な民になっていく。luxuria(淫蕩)とinanisgloria(虚栄)がローマの貴族と豪商の顔になってしまうのだ。
ローマ崩壊の芽は、実は帝国制そのものから出ているのだ、と言えよう。

青柳正規氏の「ローマ帝国」を引用する。
「ギリシアや小アジアに遠征したローマの将軍、兵士は、ヘレニズム文化に直接接触し、彼らが都ローマに持ち帰る戦利品によってローマ市民もその魅力を知るようになります。特に第2次ポエニ戦争で活躍したスキピオ(大)一族を中心とするギリシア主義は市民の共感を得てローマ社会に広く普及し、ヘレニズム世界の王朝文化と商人貴族に由来する贅沢(ルクスリア)という新しい価値観が定着していきました。もちろん、質実剛健なローマの伝統を重んじる大政治家カトーのような外来文化をきびしく諫める者もいました。しかし、紀元前2世紀前半の代表的詩人エンニウスが恩人であるカトーのもとを離れ、スキピオに庇護を求めたのは、そのような社会状況の変化を物語る象徴的な出来事でした。」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました