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江戸と東京をめぐる無駄話#04/日本の人口

立農による統治は、国民の人口増加と相関します。つまり立農が高機能になれば、多くの人が養える。出生数は増え、国家が抱え込む国民数が増えます。周囲に土地が豊富にある場合、国家は拡大します。日本のように四海に囲まれている場合は、山地の開墾が進み田畑の面積が増えます。徳川幕府は小農制をとったので、農家は夫婦単位の家族制です。子供が生まれれば、子供は独立し新しい田畑を持つ。つまり出生率と田畑開墾面積ははっきりとした相関関係があるはずです。

では。ベースになる日本人は一体全体どのくらい居たのか?
もちろん正確な資料はありません。豊臣秀吉が朝鮮出兵のために人口調査を行うまで、誰も人口調査そのものを行っていないからです。予測するしかない。
明治に入って先駆的な歴史学・歴史地理学者である吉田東伍が、慶長石高(1598年)から1人1石という仮定に基づいて1600年の推定人口を1850万人と見積っていまして、これが定説となっていました。戦後、速水融が江戸時代に幕府に為された調査から逆算して1600年代の人口を1230万人としています。
一方、アメリカの女性の人口学者アイリーン・B・トイバーIrene B.Taeuberは2200万人程度としています。
いずれにせよ、江戸時代前期の日本人人口は2000万人程度だったと考えられます。
ちなみに鎌倉時代の推定人口は、同じく逆算から1000万人程度であったと推定されています。
アイリーン・B・トイバー説を追います。彼女によると・・
1600年 22,000,000人
1650年 25,000,000人
1700年 29,000,000人
1721年 31,278,500人
1750年 29,000,000人
「日本の人口(1964年)」毎日新聞社人口問題調査会"The population of Japan", Princeton, NJ: Princeton University Press, 1958
人口増加率は0.33%です。決して高くない。現在日本国は-0.20%ですが、世界平均は2019年で2.5%ですから1/10程度だったということです。

なぜか?立農のための石高制は、あくまでも支配者目線で考えられたものだったからです。統一的なレギュレーションを確立し数値化することで、諸大名の所領規模を簡単に把握できるようになり、加封・減封・転封や飛地の処理も簡単に行えるようになった。また軍役や幕府役職の任免も石高に準じて決めていました。
そのベースとして家族単位の小農体制を取ったわけですが、だからと云って開墾政策を藩単位で強力に推し進めることは殆どしませんでした。むしろ決められた石高に対して、実体としての生産力が上がること/自然増すること・・それを喜ばしいことと考えていなかった節があります。実は、開墾政策を前面に押し出した藩は数えるほどしかなかったというのが実体でした。
したがって農家従事者の人口は殆ど増えなかった。増えたのは城下町集住政策によって集まった武士/町人のほうだった。貨幣経済が確立し、市場原理主義を採用していた都市部は大いに栄えていったのです。士農工商でいうならば、江戸時代大いに人口を増やしたのは、農を抜いた士工商だったわけです。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました