見出し画像

ボルドーれきし ものがたり4-2/"葡萄の時代"#01

物流コストは、当然"距離"が大きな要素の一つになる。特に陸路の場合、これが顕著です。それも有って、ナルボンヌの港から出荷されるナルボンシス製のワインは、当初港に近い地域で栽培され醸造されたものが中心でした。それが拡大したのは、ふたつの理由です。
①ニーズ(需要)にシーズ(供給)が間に合わなかったこと。
②そして退役軍人の増加です。
イベリア半島東側の諸都市との諍いに参戦した兵士たちは、報償として市民権と土地と作付け資金が与えられたのですが、その員数は中々治まらない対イベリア半島戦の結果として、どんどんと増えて行きました。したがって、それに比例して退役軍人たちが所有する畑もどんどんと拡大していった。場所的には、現在のコルビエール/ミネルバ/コート・ド・ラングドック辺りですね。
彼らは挙って自分の畑に葡萄を植えました。畑の面積当たりの利益率は、圧倒的に葡萄が高く、尚且つ安価なワインへのニーズは幾らでもあったからです。「売れるから作る」のです。こうして新しい葡萄畑は、ナルボンヌ市から離れた周辺地区にまで大きく広がっていきました。

植えられた葡萄はムールヴェードルMourvèdre/カリニャン等の原種です。 これらの葡萄は、原スペイン人であるフェニキア人とピレネー山脈南端に生きていたガリア人たちが細々と育てていた品種でした。フェニキア人たちが北アフリカ経由で持ち込んだ葡萄と、地元の葡萄を交配させて作った耐寒性の品種です。場所で云うと、ジブラルタル海峡に寄り添う町カディスの北東地区アラゴン地域あたりで栽培されていた品種です。同地へ侵攻したローマ兵が、その葡萄の枝を折って持ち帰り、ローマから与えられた自分の畑へ根付かせたのです。
葡萄はイタリア半島西側の地中海沿岸では育てるのが至難でした。それはアルプスにぶつかって反転し北から吹き付ける風(ミストラル)のせいです。時には瞬時に気温を10度も気温を下げてしまう烈風に、葡萄の木は耐えられなかった。だからこそ・・交易用のワインは、イタリア半島諸都市商人たちの独占商品であり、マルセイユは中継点と云う位置に甘んじていた訳ですが、退役兵士たちの畑は、一挙にその独占を平らげてしまったのです。
彼らが植えたムールヴェードル/カリニャンですが、前者はスペインではモナストレルと呼ばれている品種です。後者はカリニェナと呼ばれています。「カディスの葡萄」と云う意味です。
そしてこれらイベリア半島から東進したぶどうから、サンソーCinsautが生まれた。サンソーは今でも、南仏では極めて大量に植えつけられている品種です。前2種より乾燥地に強く、芽吹きが遅いので春遅く目覚め、そのうえ遅霜にも強い品種です。まさに寒冷地用葡萄です。
これらの葡萄品種を総称して、ローマはビトゥリカBituricaと呼んでいます。 ビトゥリカとは「ビトゥリゲス族の葡萄」という意味です。ローヌ川で栽培されていたシラーが、当初アブロブロギカ「アブロブロゲス族の葡萄」と呼ばれたのと同じです。
ビトゥリゲス族というのは大西洋側ブルディーガラ(ボルドー)周辺にいたガリア人です。彼らはかなり早い時期から、他地区のガリア人たちと交易を行っていたと云う考古学的な発見が多数されています。つまり地中海側ナルボンシスから商人たちがワインを運んで商売を始めるための先鞭がそこには存在していたと云う訳です。彼らは細々と葡萄を栽培し、これから作ったワインで他部族と交易をしていたようです。
ローマの三大農学者であるコルメラLucius Junius Moderatus Columellaは、その著「農業論De Re rustica」のなかで、この"ビトゥリゲス族の葡萄"は、スペイン原産のココ・ルビスcoco-rubisと同じものであると書いています。これもまた原産地の名称です。

純粋な商人の町として始まったブルディーガラ(ボルドー)は、カエサル軍通過後、初代皇帝アウグストゥスの政治的支配下に入ることで急速にローマ化しました。これを全く抵抗なく商人たちが受け入れたのは、言うなれば彼らが費用対効果を推し量ったからでしょうね。商人たちは、ローマの支配下にはいることで与られる恩恵を、商売を伸ばすためのツールとして十全に活かそうとしたのです。

ひとつは前述したローマ道を利用した陸路による交易ルートの開発です。これは北のサントを中継点に、東の大市が立つ町リヨンでの大きな商売をブルディーガラの商人たちにもたらしました。
そしてもう一つは、切れることなく続いていたローマのイベリア半島への侵攻です。帝政ローマは、フェニキア人を祖とするイベリアの諸都市を次々と捻じ伏せながら、200年あまりで現スペインの大半を自分たちのものにしていました。

北アフリカ地中海沿いに目の上のタンコブのようにあったカルタゴを陥落させたことで、ローマは落人を追うように徹底的な殲滅戦をイベリア半島の諸都市へ仕掛けていたのです。そこにブルディーガラの商人たちは商機を見ていました。
現フランスバスク側の向こう側、ピレネー山脈を挟んだ現スペイン側へ、ローマが戦火を広げた時、ブルディーガラは熱心な兵站の提供先として膨大な利益を上げました。対岸の火事が如何に儲かるか/略奪されない側からの戦争への参与が如何に儲かるものか・・元々傭兵からの転身者だったブルディーガラの商人たちが知らないはずがない・・というわけです。

ところがこのルートの確立は、ブルガーディラに思いもかけない副産物をもたらしました。それは葡萄です。
ブルディーガラの商人を構成していたのは、地中海側ナルボンシスの農家から派生した商人たちと、北の海からやってきたケルト(ガリア)商人です。ローマがガリア人による葡萄を禁止していたこともありますが、葡萄の栽培/ワインの醸造はローマ人の独占物でした。彼らは、交易地に近い場所で葡萄を育てる/搬送コストを極力抑えるために、畑の北上/トゥールの峠を越えてナルボンシス地域から飛び出し、ピレネーの山間に、北側アキテーヌ側の斜面に畑を作ろうと弛まざる努力と挑戦をしていました。
しかしこの努力は中々至難でした。たしかに彼らの葡萄はイベリア半島カディスの近くで改良された耐寒種の末裔でしたが、それでも初霜の後に葡萄を収穫するのは難しかった。早い冬の訪れがある年は、いとも簡単に葡萄は立ち枯れしてしまうからです。そして長い冬・・土が凍結すれば葡萄はひとたまりもなく死んでしまいます。

後二者については、冬越えのために収穫の後は葡萄の木そのものを土で覆ってしまうなどの様々な工夫が既にされるようになっていましたが、いずれにせよ、結実が雪の残っているうちに始まってしまう地区、そして収穫前に冬が来てしまう地区では、葡萄の作付けは、ほぼ不可能・・だったわけです。 これを抜本的に解決したのが、ピレネーの向こうから持ち込まれた葡萄です。
あれほど、葡萄について詳細に書いているストラボンも、ブルディーガラについて語る部分に葡萄についての記述がない。おそらく彼の時代には、同地に見るべき葡萄畑は無かったのでしょう。
しかしプリニウスもコルメラも同地の葡萄ビトゥリカBiturica(彼らはナルボンシス側の寒冷種とアキテーヌ側の寒冷種を区別して語っていない)について語っています。これから鑑みても、やはりブルディーガラ側アキテーヌ盆地の南の斜面に葡萄畑が広がったのは、おそらく間違いなくローマによるイベリア半島侵攻が成立した紀元後のことでしよう。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました