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金貸しの起源#04

公益質屋制度を国内で初めて本格的に導入したのは東京市だった。後藤新平である。1924年4月1日である。「東京市設質屋」という名称で京橋/浅草/深川/本所/下谷で始まった。
実は、欧州における公益質屋の存在は明治時代から知られていた。しかしこれを国内に導入しようという動きはなかった。検討され始めたのは大正に入ってからである。強く推進したのは内務省(地方局,窪田静太郎.井上友一)と大蔵省(添田寿一,小野義一)らで、彼らは地方公共団体が当然に設立すべき救済機関として公益質屋制度の意義を強調し、その設立を促した。
なぜ内務省は強く公益質屋制度を推したか?
その背景にはロシアの赤色革命そして日露戦争の反動としての慢性的不景気による米騒動が度々おきていたことがある。

帝国議会第40回議会(1917年)で憲政会の横山勝太郎は「救貧行政ニ関スル質問」として「救貧行政殊ニ公設長屋質屋官営ノ施設ニ関スル政府ノ所見如何)」と質問している。これに対して国務大臣だった後藤新平は「公設長屋及質屋官営ノ施設ハ救済行政上重要ノ事タルモ実際ノ状況及財政ノ関係等ニ付殊ニ慎重ノ考慮ヲ要スルモノアルコトヲ認ム」と回答している。
こうして国内最初の公益質屋・細田村営質庫(宮崎県南那珂郡細田村)が大正元年(1921年)10月10日に設立された。これに内務省は「市町村ニ於テ細民救済ノ為メ質屋ニ類スル業ヲ経営スルハ差支無」き旨各地方長官へ通達した。そして「経営ノ公共団体ニ低利資金融資ノ途ヲ開」くとしている。

これに即されて翌年にかけて財団法人東京府社会事業協会が立ち上がり「武蔵屋質店」の名前で19日暮里/下谷/本所/千住で営業を開店しているのだ。
後藤新平はさすがだね。彼の先進性は際立っている。
続いて北海道/宮城/茨城/神奈川/岐阜/愛知/京都/大阪/兵庫/岡山/広島などでも開設され、1925年には39か所になっている。
また同時に後藤新平は、東京市政改革のため東京市政調査会を設立「都市庶民金融に関する調査」を行っている。これをベースに1927年3月31日に「公益質屋法」が公布された。
当時の厚生省社会局の調査「戦前および戦後における質屋数」によると12年後の1939年に公益質屋は全国で1142になった。

・・しかしこうした後藤新平の尽力は敗戦によって失墜した。
公益質屋の店舗数は激減した。資金不足のために貸付ができなくなってしまったのだ。
全国の公益質屋の店舗数は1955年には655に半減してしまっている。資料によると1954年度に東京都で資金不足のために貸付できなかった件数は11万2000件。金額で1億6000万円だった。地方都市でも申込みの約半数は資金不足のために貸付に応じられなかったという記録が残っている。

・・そして983年には公益質屋は61になってしまった。その年の貸付件数は9万9820件、貸付金総額は約20億6000万円だった。
2000年(平成12年)6月、社会福祉事業法が社会福祉法に改正され、この時点で公益質屋法は廃止された。・・おそらく月島の公益質屋が閉鎖になったのもこのタイミングだろう。
同時に私設の質屋も同時期に殆ど、質屋としては機能しなくなっている。古物売買がメインの商売に様変わりしている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました