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ナダールと19世紀パリ#16/ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン

髭の小男ルイ・ナポレオンがパリの大改造を思ったのは何時の事なんだろう。
叔父ナポレオン・ボナパルトが失脚し、海外へ亡命した時はまだ幼かった。ブルボン朝が作ったパリの街並みを憶えているわけがない。以来、ルイ・ナポレオンは海外を転々としたために碌にフランス語も話せなかった。そんな男がパリの大改造を早くから夢見ていただろうか?僕にはそうは思えない。いや・・そんな男だからこそ、大改造を決断した時、ブルボン朝の栄華の跡を無残に破壊する徹底的なオペが出来たのかもしれない。
たまたま転がり込んできたフランス大統領という地位に就いたとき。ルイは宰相ビクター・ユーゴーに聞いている。「ところで、そのヴォージュ広場というのは何処にあるのかね?」彼は就任式が開かれる場所、パリで最も有名な場所も知らなかったのだ。
あの、髭の小男にとって、パリは思い入れの対象ではなく「もらった勲章」だったに違いない。そしてその貰った勲章を、彼は誰よりもピカピカなものにしたかっただけかもしれない。
僕は幻視する。1848年大統領就任式の日。ルイを乗せた馬車はシャンゼリゼ通りをヴォージュ広場に向かって行進した。凱旋門から一直線につくられた大通りである。皇帝となったナポレオン・ボナパルトが自画自賛のために作った栄光の道だ。・・この時ではないか?
参道に立つ人々の群れを見ながら、たった4年で任期が消えてしまう自分が、痕跡としてパリに刻めるものが何か?まるで小学生が自分の机に名前を彫るように・・ルイは、パリに名前を彫ろうとしたのではないか。そう思ってしまう。

ルイは、大統領就任の後、すぐさまジャン・ジャック・ベルジェJean Jacques Bergerに「パリの大掛かりな土木工事」を指示している。しかしベルシェは言うことを聞かなかった。ベルジェは大統領選挙ではルイに与した男である。しかし腹の中ではルイ・ナポレオンを蔑んでいたのだ。思い通りに動かないベルジェに、ルイは苛立った。
クーデターが成功し第2政成立と共に、ルイはベルジェをすぐさま解任。その後釜にジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンGeorges-Eugene Haussmannを置いている。
知事叙任式の夜、ナポレオン3 世に呼ばれたオスマンは大きなパリ市の俯瞰図を見せられた。
「皇帝は、私に1枚のパリの地図を示した。そこには皇帝が実現するつもりである新しい道路が緊急性の度合いに応じて、青、赤、黄、緑で塗り分けられていた。そして皇帝は直ちに着工するよう私に命令した。」
こうしてオスマンとルイ・ナポレオンは出会った。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました