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ボルドーれきし ものがたり4-3/"葡萄の時代"#02

ビトゥリカBituricaという寒冷対応種の登場が、ピレネー山塊を越えたアキテーヌ盆地南側地帯での葡萄栽培を可能にさせました。そしてこれがブルディーガラでワインを売っていた人々のビジネスモデルを大激変させたのです。今回はその話を。
葡萄の木を寒冷地で栽培するには、耐寒種を交配によって作り出さなければならないのです。葡萄は温暖地の植物ですから、この壁は極めて高い。したがって葡萄をイタリア半島以西の地中海北岸で育てるのは無理でした。
それをナルボンシスの退役軍人農家の人々が可能にさせたのは、彼らがカディスの北東地域で栽培されていた品種(ムールヴェードル等の始祖)を使用したからです。

それらはフェニキア人たちが北アフリカ経由でイベリア半島へ持ち込んだ葡萄の末裔で、寒冷対応種に品種改良されたものでした。しかしこの葡萄の木でさえ、ピレネー山塊を北上するのは不可能だったのです。
既にアブロブロゲス族が東から持ち込んだ(のちにシラーと呼ばれる)葡萄は、ローヌ川を挟んで大きく広がり各所で栽培されていました。この葡萄の北限は、ナルボンシスの退役軍人農家が使用したものより高緯度です。ローヌ川沿岸をかなり深い所でも栽培されていたのです。しかしその西側の北限は、コート・ロティあるいはガイヤックだった。それより西に聳えるセヴェンヌ山塊を越えることは出来ませんでした。理由は、あまりにも険しい峰々だったこと、そして獰猛なガリア人部族の存在が大きな障壁になっていたからです。
そのため、セヴェンヌ山塊の向こう側/アキテーヌ盆地には葡萄畑は有りませんでした。
ちょっと余談ですが。現在でもガイヤック周辺の葡萄が(マルベックなど)同地特有の品種で、他の地域に無いものばかりなのは、おそらくこの立ち塞がるセヴェンヌ山塊のために"袋小路現象"が起きたためかもしれませんね。

ジロンド川沿いに、ワイン直販交易所を築いたナルボンシスの農家/商人たちは、同地に自分たちの畑を開墾できないままだった。 もちろん、彼らは交易地が出来上がったときから、葡萄栽培地の北上に弛まなく挑戦していました。おかげで葡萄畑はミッドピレーネ山間部まで、辛うじて広がるようになってはいた。しかし彼らが使っていた品種では、どうしても限界があったのです。その限界をビトゥリカBituricaが、一挙に解決してしまったわけです。

こうしてアキテーヌ盆地南側斜面は、最初の千年紀が始まると急速に、このバスク地方を越えて持ち込まれた葡萄の木によって埋め尽くされていったのです。
実は、この北限突破の成功は極めて重要な意味がありました。
生産地が交易地に近くなったことで、コストが大幅に下がっただけではなく、アンフォラを使ったトゥールの峠越えが無くなることで、地中海側ナルボンシス地域と、大西洋側ブルディーガラ(ボルドー)の間に有った商圏/しがらみが、穏健に分断されていったのです。

再三書いているように、①ボルドーに暮らす人々の多くは、ナルボンシス地区に葡萄畑を作った退役軍人(大半が非ラテン人)です。②彼らの作ったワインは、イタリア半島の諸都市から船で(地中海側にある)ナルボンヌの港に来るローマ商人たちに安価で買われていた。③それに不満を抱いた人々が独自販路を求めて、山の向こう/地峡の向こう・・大西洋側へ直売交易所を作った。これがボルドーという町の始まりです。

そのため、資本的にも人脈的にも二者は複雑に絡み合っていた。そのしらがみを、アキテーヌ盆地南斜面に広がった葡萄畑が緩やかに解消していったのです。・・こうしてボルドーは地中海から経済圏として自立した。これが大きくボルドーの人々に、特異な自立自尊意識を紡いだ・・僕はそう見ています。

一歩下がって、俯瞰して見つめてみると。
ボルドーは、東に険しい山岳地帯、そして西と南にピレネーの尾根と、三方が山に囲まれた地域です。この地区が外部とストレスなく繋がれるルートは、北の広大な沼地を抜ける水路しかありません。ある種、陸の孤島だったわけです。
その陸の孤島であるボルドーに、北方ガリアとローマ軍退役軍人(ゲルマン人/東方ガリア人)商人そしてラテン人商人、そして無数の専業帰化人が輻輳的に折り重なって寄り集まり、交易と云うひとつの商売の許に集いメルティングポット化した。結果として独自文化を醸した
云ってみれば・・ボルドーにとって、ローマの栄枯は遠い地から聞こえてくる木霊でしかなかった。商売の嵩や商材に影響は有ったが、ローマの動静がボルドーの生命線に触れることは無かったのです。

実はこのボルドーの「陸の孤島」的立ち位置は、フランク人によるフランス統合の時にも大きな要素として、ボルドーの特異性を守ることになるのですが・・この話は後ほどにしましょう。
ちなみに。プリニウスは、このビトゥリカBituricaという葡萄について「少し渋みが強いが、時間が経つと魅力的になる」と云っています。そうです。まさにカベルネ種の特徴です。
つまり・・ボルドーという町の産業とその自立自尊の精神。これを生み出ししたのは、まさにカベルネ種の始祖であるビトゥリカという葡萄の力である・・と云えるのです。
この葡萄が、ボルドーの進むべき道を決定したのです。

ビトゥリカBiturica種は、ボルドーで栽培される最も一般的な葡萄として、現在に至るまでアキテーヌ盆地でその地位を保っています。カベルネ・ソーヴィニヨン/カベルネ・フラン/メルローなどと呼ばれている品種の始祖です。全体に特有の渋みがあり、口にした時すぐ判るのが特徴です。
なかで、カベルネ・ソーヴィニヨンCabernet SauvignonこそBiturica種/直系子孫であると長い間、云われてきましたが、これにはどうもムリがある。18世紀まで、カベルネ・ソーヴィニヨンはプチ・ビダールPetit Bidure(Vidure)と呼ばれており、これに対応した品種でグランド・ビダールGrand Vidureと呼ばれているものも有ったのです。これはカルメネールCarmenereを指す古名です。
なぜPetitが直系でGrandが傍系なのか?
たしかにPetit Bidure(カベルネ・ソーヴィニヨン)は、Grand Vidure(カルメネール)に比して、滋味豊かな葡萄で長期熟成に耐え、時を経ることで驚くほど魅惑的なワインと化す品種です。この葡萄がボルドー/ガロンヌ左岸のブルジョアたちの畑で多用されたのは肯ることですが、如何にロートシルト家の権威があっても「これこそ本家主流である」と云い張るのは、やはり無理があります。おそらく本人たちもそう思ったのでしょう。Petitが付くPetit Bidureという名前は次第に使われなくなり、カベルネ・ソーヴィニヨンCabernet Sauvignonと呼称するようになっていきました。

このカベルネ・ソーヴィニヨンという名前ですが、実はこの葡萄の本質を見事に表しています。
同種は17世紀に入ってから、カベルネCabernet種とソーヴィニヨンSauvignon種を交配して作られた葡萄だったのです。近年になってUCデーヴィス校が行った大規模DNA調査によって、そのことが明らかになっています。
片親であるカベルネCabernetは、Biturica種の裔です。この呼び名はおそらくボルドーが英国領になった頃からではないかと思われます。当時、英国ではボルドーから持ち込まれたワインをクラレットclaretと呼んでいました。
そして片親であるソーヴィニヨンSauvignon種は、アブロブロジカ種の裔で原種はローヌです。つまり両種の"良いトコ取り"をして生まれたのがカベルネ・ソーヴィニヨンだった訳です。

ちなみにUCデーヴィス校が行った大規模DNA調査ですが、メルローの出自も明らかにしています。 メルローはカベルネ・フランの亜種で、多分にマルベックのDNAが入っていることが判っています。
マルベックは、ガイヤックで栽培されている葡萄です。前述したように同地の葡萄は東方から渡ってきたアブロブロジカ種です。同地はセヴェンヌ山塊のために"袋小路現象"を起こしていましたが、アキテーヌ地方が英国領になると、ガイヤック/コート・ド・ロティのワインがロンドンへ運ばれるようになったので、おそらくこの時期に交配が試されたのではないでしょうか?

ところで。すこし先取りになってしまいますが・・西暦1000年代に入ってロンドンの商人たちがボルドー製のワイン以外の、もう少し奥まった地方のワインまでドルドーニュ川を利用して運んでくるようになると、これを不快な思ったボルドーのワイン業者たちは、これらの荷役の入港を拒否するようになります。しかしそれでも入港してくることに業を煮やし、自分たちの出荷分の樽にはCabernet(ボルドー製)と表示するようになる。この表示から、英国ではワインのことをクラレットclaretと呼ぶようになったと云われています。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました