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黒海の記憶#10/黎明の黒海

ギリシア商人たちが黒海での活動を始めたのは紀元前1000年頃からだろう。
前述したように、ギリシアは穀物が生産出来る平野/高原部が少ない。そのうえ山岳部が海岸線にまで達しているので、海に接する平地も狭く分断されている。そして海を見つめると、地中海は太古の大地の割れ目の残滓なので深い。海棚が極端に狭い。魚が育つ環境が少ないのだ。つまりギリシアで、イタリア・ポー平原で生まれたような巨大な立農国家を成り立たせるのは不可能だったのである。こうした諸条件が、ギリシャ特有の地方都市国家を生み出す要因となっていったと云えよう。

ギリシアを見つめていると、僕は殷(商)を思い浮かべる。商(商)は土地痩せて作物が育たない地だった。そのため人々は仲買いを生業とした。なので、こうした仲買人は"商の人"商人と呼ばれた。

ギリシア人の祖型。ギリシア人は自分たちをアカイア人と呼んでいた。彼らの出自はおそらく中央アジアから南ロシアに架かる地域だろう。壮大な干ばつに追われ西へ西へと移動したインド=ヨーロッパ語族の一部がバルカン半島を南下したのは紀元前3000年~4000年頃だろうと言われている。そのアカイア人に重なるように同じく南下してきたドーリア人がこの地に入った。アカイア人が東方系印欧語方言だったこと。ドーリア人が西方系印欧語方言だったことから、この二つの種族の出自は違うのではないかと言われている。文明的にはドーリア人のほうが優れていた。彼らは冶金技術を持っていたのだ。ギリシアに青銅器文明をもたらしたのは間違いなく、このドーリア人である。

その時代、地中海東海岸レバント地方から、フェニキア人が西へと海を広がりはじめていた。ギリシア人は、先ずフェニキア人と交易と戦争をはじめ、自らの世界をエーゲ海の海岸に育み始めるのである。それとほとんど重なるころ、ギリシア人は黒海南側を西進してきたキンメリア人と衝突した。そして、ここにも交易と戦争が起きた。・・このキンメリア人との交易と戦争は、黒海の北方に広大な農業生産地があることをギリシア人に教えた。黒く霧深く、常に強風が吹き荒む海の向こうに豊穣の地があることを、ギリシア人はキンメリア人から学んだのである。

彼等はスキタイ人と云った。馬を操り穀物を栽培していた。またコルキス人がいた。彼らは冶金技術に長けており独自の王国を小さかったが持っていた。ヘロドトスによると、南岸にはビュテニア人バフラゴニア人が暮らしているとある。ヘロドトスは彼らをエジプトの民であると書いている。
キンメリア人は、その南岸の部族だった。極めて勇猛で好戦的だったので、彼らの記録はかなり初期から歴史書の中に登場する。
・・例えば「創世記」だが、キンメリア人はノアの子らの一人ゴメルの末裔であるとしている。エレミア書の中(6章22,33節)でもキンメリア人について触れている。
こうした黒海南岸の異民族との交易と戦争の中に「商機」を見出したギリシアの商人たちは、はじめはおずおずと、そして少しずつ大胆に、東へ東へと向かう海流に乗って、交易の地を黒海の東側に広げていったのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました