見出し画像

アジェのパリ#05/孤独に生きる意味

1926年はアジェにとって大きな変化の年になった。最愛の人ヴァランティーヌに先立たれて意気消沈するアジェを励まそうと、アンドレ・ブルトンが機関紙「シュールリアリズム革命」で彼の写真を紹介したためだ。
最晩年に起きた、この大きな波紋にアジェは何を思っただろうか。おそらく淡々と他人事のようにしていただろう。一人ぼっちの最終幕を粛々と迎えるつもりだったに違いない。

機関紙「シュールリアリズム革命」に掲載されたアジェの写真は四枚。第七号に三枚、第八号に一枚だが、アジェの描く世界に初めて触れた人々は吃驚仰天した。アジェの醒め切った視線はまさにシュールリアリズムが目指す頂点の一つだったからだ。多数の人々が「この写真を撮ったのは誰か!?」と叫んだ。
写真には撮影者のクレジットがなかった。アジェが拒否したからだ。 撮影者の謎は謎のまま残された。

画像2

ところがアメリカから来た画商ジュリアン・デヴィJurian Devil が、ひょんなことからその写真がアジェの作品であることを知った。デュシャンと共に訪巴した折、マン・レイのアトリエで「あの写真を撮った人物はアジェと云う男だ」とマン・レイは滔々と語ったからである。マン・レイはアジェを見つけたのは自分だと自負していた。
ジュリアン・デヴィはすぐさまアジェの古いアパートを訪ねた。

アジェは、この唐突にやってきた客にも淡々と対応した。年代ごとテーマごとに整理されている膨大な量のアルバムを見せた。ジュリアン・デヴィは鳥肌が立った。そしてその場で数百枚購入すると、再訪を約束した。
しかし・・この約束は果たされなかった。

実はもう1人、アジェに魅せられたアメリカ人がいた。ベレニス・アボットBerenice Abbottという若い女性カメラマンだ。彼女がアジェを知ったのはヴァランティーヌの亡くなる前年1925年のことである。これもまたマン・レイを通してだった。彼女はマン・レイのアシスタントをしていた。ベレニスは足繁くアジェのアパートを訪ねた。ベレニスとヴァランティーヌの気があったおかげだろうか、アジェも彼女には気を許した。

アジェが亡くなる年。春に彼女が自分のスタジオを出した時、珍しく正装したアジェがお祝いに訪ねている。現存するアジェの2枚のポートレイトはこの時に撮られたものだ。ベレニスはそのポートレイトをアジェの許に届けると約束した。

しかし・・この約束も果たされなかった。彼女が再訪した時、アジェはもうこの世を去っていたからだ。
眠るように。
一人ぼっちで。
淡々と。
看取る者も無くアジェは去った。1927年8月4日である

画像1




無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました