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江戸と東京をめぐる無駄話#05/経年疲労した農政策

徳川幕府の立農/石高制は、米をベースとした現物納による生産物地代徴収の上に成り立っていましたから、生産量を増やすための小農自立進展は大いに推奨されるべきものでした。しかし実際には、これは建前でしかなかった。生産禄高が増えることは石高が増えることなので、藩として考えると幕府への軍役などの出費が増えることなので、実はあまり芳しくないものだったのです。現状維持が最ものぞましい。そのため推奨はしても組織的な技術促進技術供与は、お上からは殆ど行われませんでした。新田開発の大半は村単位で行われたのみで、いずれもそれほど大きな技術革新は藩からは供与されませんでした。こうして200年余りが過ぎたのです。
それでもより多い収入を求めて、そして我が子らの生活の基盤となる田畑を求めて、農家の新田開発は江戸時代を通して続いた。平野部の開発が飽和すると山林部の開墾を精力的に行い、自作農家は作付面積の拡充を目指しました。
しかしこれに対して、幕府・各藩は、過ぎた開墾を防止するためとして「諸国山川掟」なる御触れを寛文6年(1666年)に出しています。これは「伐採による開墾を禁じ、木立無き所のみ苗木植栽を許す」というものでした。

諸国山川掟は以下のものです。
「覚 山川掟
一、近年は草木之根迄掘取候故、風雨之時分、川筋え土砂流出、水行滞候之間、自今以後、草木之根掘取候儀、可為停止事、
一、川上左右之山方木立無之所々ハ、当春より木苗を植付、土砂不流落様可仕事、
一、従前々之川筋河原等に、新規之田畑起之儀、或竹木葭萱を仕立、新規之築出いたし、迫川筋申間敷事、
 附 山中焼畑新規に仕間敷事、
 右条々、堅可相守之、来年御検使被遣、掟之趣違背無之哉、可為見分之旨、御代官中え可相触者也、
寛文六年也 午二月二日」
この御触れによって、山林部の開墾は実質的に禁止されたのです。

同時に延宝元年(1673)「分地制限令」が出され、農民は我が子らに所持田畑を分割相続ができなくなってしまいます。
我が子が生まれれば・・所有地が増えていないかぎり、持っているものを分割するしかない。これは原理です。しかしそれを禁止したのが「分地制限令」でした。子が出来ても一子のみしか田畑の相続が出来なくなったのです。これは田畑が細分化し、零細化によって米の生産能力が落ちてしまうことを防ぎたいという支配者側の都合だけを考えた政策でした。
したがって、農民は増えなかった。増えようがなかったのです。

それでも、江戸幕府によって確立した貨幣体系は暫時農家にも浸透していきました。農民は生産した米を年貢して収めた残りを、米商人に売って銭を得ました。この銭で様々なものを贖ったのです。時にはそれが主食となる稗粟だったりした。・・・ところが銭の流通は、大きな副産物をもたらしました。農家は銭を得るために、米以外のものを精力的に生産するようになるのです。綿作などの商品業で使うものをです。こちらのほうが直截的に利益率が高かったからです。

こうして・・幕府の付け焼刃的な改変を繰り返した小農政策は、原理原則からどんどんと乖離し、結果として農家を専業ではなく兼業へと推し進めてしまったのです。
この・・兼業農家の台頭と中央米商人との商行為は、必然的に地方に大地主を生み出していきます。徳川幕府が目指した夫婦単位の小農直接徴収体制は、いとも簡単に崩落して、室町時代のような小型版疑似荘園が乱立したのです。豪農がうまれ、庄屋が生まれ、農業経済は貨幣をツールとして一気に姿を変えてしまったのです。
結果として、夫婦単位の小農家は人口が伸びず、子が生まれれば食い扶持が減るので、小農の生産力は停滞していきました。天候によって不作荒作が起きれば、余力なく飢餓に陥ってしまうまでに凋落した。これが幕末の農家の実態だったのです。耕地面積の拡充拡大が無ければ、タコの足食いのように陥る事態へ、日本の立農政策は200年かけて迷い込んだのです。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました