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らく町まぼろし散歩#01

僕にとっての銀座/有楽町は1965年あたりから1970年くらいだ。高校生になってからと大学生になってから・・だね。それ以前だと母に連れられて出かけた、ちょいとオシャレをしてく街だった。神田に有った洋書専門の製本屋だったウチの娘だった母は、昭和元年生まれだったから激動の時代に多感な10代を過ごした人だった。それも洋書専門の製本屋という特異な環境が、あの時代に有りながらも母の趣味や性格に深く織り込まれたのかも知れない。普通に英語を話し、洋楽と洋画と普通に洋食を嗜む人だった。・・GHQで働いていた父が逝った後も母の洋風な暮らしは全く変わらなかった。

僕が中学の時に、付き合っていたお嬢さんから「音楽は何が好きなの?」と言われて、苦し紛れに「ジャ・ジャズ」と言っちまって。言ってから焦って山野へジミースミスの「ザ・キャット」を買いに行ったんだけど、それを母のレコードプレーヤーでかけてたら、母に鼻で笑うように言われたことを憶えている。「おや。ずいぶん小粋なモノを買ってきたわね。」ははは♪ヤマシイ気持ちで買ってきたEPだったから、赤面したね。でもそのうちしばらくすると小遣いをくれた。そして「山野でなんか違うレコード買ってくるといいわよ。その代わりこれは店のジュークボックスに入れるから」と言われた。そんな感じで、店のジュークボックスに入れるEPの仕入れは何となく僕がやるようになった。

今思うと・・母がやっていた勝鬨の梺にあったbarは、銀座で働いていた人たち/バンドマンたちが足繁く通う店だったんだと思う。きっと父が逝った後、長く銀座のキャバレーで働いていたからだろうな。常連さんの中にずいぶん日本語が達者な外国人がいて「コンデさん・コンデさん」と呼ばれているのを、何回も小耳にはさんでいて・・僕自身が高校に入ってから銀座のキャバレーやクラブでバンドを始めてから、その人がレイモンド・コンデさんだったことを知ったりした。ウチは一階が店、二階が寝起きする場所だったから、階下にはいつもジャズがあったんだ。

高校に入ってすぐ、有楽町スバル街にあった「ママ」に通い始めたのも、ある意味当然進むべき道だったのかもしれない。
・・しかしまあ、良い時代だったんだな。高校生で、それも学校の帰りに、学生服のままジャズ喫茶に入っても、誰も咎めないし不思議に思わない時代だったんだな。僕はあの煙草臭い店の中で、ALTECから出る大音響を浴びながら130円のコーヒーで2時間20分、狭いテーブルを前にして右往左往する茶羽ゴキブリをかまいながら、かかったレコードのメモをしたり、試験勉強をしたり、ATGで観てきた映画のメモをつけたりした。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました