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ゆく水や 何にとゞまる 海苔の味#03

浅草紙という。江戸時代に浅草山谷付近で生産された再生紙のことだ。原料は、吉原や浅草あたりで使用された和紙だった。浅草紙はこれを漉き返して作った紙だ。大抵は灰色で黒保と呼ばれていた。漉き返し前に石灰水で蒸解し直したものは白保と呼ばれていた。製法は一般的な和紙と同じで、一枚ずつ丁寧に作る。鼻紙や落し紙として江戸市中で広く使われていた。佐藤信淵の「経済要録(1827)」に「江戸近在の民は、抄(返し紙を製すること、毎年十万両に及ぶ」とあるからその需要は相当なものだったようだ。

その技術をそのまま干し海苔に転用した者が現れた。元禄年間直前・元和元年(1615)である。大森の海苔製造漁師・野口六郎左衛門という人物だと言われている。しかし・・この説は客観的にみると、相当怪しい。第一、漉き返して作った再生紙「黒保」が登場するのは「振袖火事(1657)」以降だ。あの火事が原因で「吉原」遊興地が整備された。「吉原」の隆盛なしに原料となる和紙の確保は覚束ない。

紙のように薄い浅草海苔と浅草紙は、ある種対を為す浅草名物だ。これと錦絵、合わせれば江戸の三大土産となる。「東京ひよこ」か「東京ばなな」か「鳩サブレ」かってぇとこだ。
もちろん、野口六郎左衛門なる人物が浅草紙のことを知らなくて、まったく独自の発想で板海苔を作った可能性はある。だから彼をお宗主(おすす)さまの座からいとも簡単に追い出すことはできない。
しかし・・広がったのは、浅草からである。大森からじゃない。浅草から始まって浅草から広がったとみるべきだろう。
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/.../digital.../057/09/
山東京伝も「近世奇跡考(1804)」で「海苔をあきなう旧家中島屋某にとひしに、浅草川にてとりしは、遙かに遠き事と聞きしが、浅草にて製したるはちかき事なり、極品の海苔は二十年ばかりさきまでも、浅草にてすきしと語りき」と書いている。元祖浅草産の板海苔は上物として扱われていたようだ。
https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0237/049-0242/
ところがだね、俳人菊岡沾涼の「続江戸砂子(1735)」を見るとこんなことが書いてある。「浅草海苔雷門の辺にてこれを製す。二三月頃盛也。品川生海苔、品川大森の辺にて取る。浅草にて製する所のものは則此処の海苔也」なるほど、品川大森辺で採集できる生海苔は「ごみが少なく仕上げがよい」そうだ。こうしてみると、徳川吉宗の「享保の改革(1716)」があったころには、浅草海苔原料の大半が大森品川あたりになっていたようだ。
山本山のHPにある「海苔の歴史」の年表を見てみよう。経緯がよくわかる。
https://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.html

ところが隅田川の漁師の生命線を断つトンでもない政令が貞享四年(1687)にでた。「生類憐みの令」である。5代将軍徳川綱吉は嗣子徳松の夭折したのち、パタリと側室に子供ができなくなった。それは「前世の罪障」であると真言僧・隆光がほざいた。安倍晋三に「アベノミクス」を囁いた浜田宏一と同じタグイの極悪人だ。その話を鵜呑みにして綱吉は神仏に(安倍の場合は宗主アメリカ様のために)功徳を積まんがために、アベノミクス・・ではない「生類憐みの令」を発令した。そして、将軍に迎合する木っ端役人のせいで、同令は日本史まれにみる天下の悪法と化した。実は、その返す刀で、同令によって元禄五年(1692)から、隅田川の浅草近辺16丁四方の漁業が前面禁止されてしまったのだ。生海苔採取するどころではない。漁労が禁止されてしまったのである。漁師たちは止む無く隅田川の外(ご朱引き線の外)へ散った。このとき、海苔取り業者も多くが大森海岸へ移ったようだ。しかし名物としての「浅草海苔」は既に名声を得ていた。そのため原材料はこうした引っ越し漁師から買うようになった・・ということらしい。ちなみに斎藤月岑「東都歳事記」の「浅草三社神社の祭礼の項」にそのあたりの話が出てる。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました