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らく町まぼろし散歩#02

心に骨格が出来て、血肉が付くのはきっと中学から高校になるころなんだろうと思う。
色々なものとの出会い。人、モノ、音楽、映画、書籍・・これらが、そのままマッつぐに血肉になる時代なんだろうな。とすれば人は高校時代に完成されて、それ以降は大して伸びない変わらないものかもしれない。
僕にとって、中学/高校は銀座と有楽町だった。音楽も人も映画も書籍も・・この街で出会った。

東劇の五階の小さな映画館「中央劇場」。三原橋の下にあった「名画座」になったりエロ映画館になったり忙しかった処。そして日劇にあったATG。ヴィスコンティもゴダールもエイゼンシュタインも何もかも僕は全て銀座の映画館で観た、
高柳ジョジョさんのボーヤで出入りした「銀巴里」。元さんがブィブィ言わせてた「ジャンク」。そして「グランドキャバレー・ハリウッド」「キャバレー・ウルワシ」「クラウン」「白いバラ」これらの店で僕は「生きてるジャズ」を体感した。
そしてレコード。ジャズ喫茶「ろーく」一丁目の裏通りにあった「オレオ」松坂さんが「ジャズ批評」という雑誌を立ち上げたのは僕が高校二年生だったころだ。そしてほとんど日参した有楽町「ママ」その奥にあったEPをジュークボックスでかけていた「オロ
オロはスバル街立ち退きのあと、帝国ホテル近くの山手線のガード下に入って、しばらく中華屋をやっていた。スバル街のころは妖艶な姉妹二人が店に立っていて、そのお二人がそのままガード下で中華料理を始めたんで、そのままそちらの店のほうも随分と長い間通った。
「父がねぇ、国民軍と台湾に渡ったのよ。それから日本に来てねぇ、私たちは上海生まれなのよ」と、壮齢になってからの姉妹がぽつりと言ったことがある。まだ戦後が生きていた時代だ。

昭和通りに面してあるのは「ナイル・レストラン」ナイルさんは東京裁判のとき、パール博士の通訳として働いた方だ。もともと大川周明のところで書生をされていた方なので、戦中は「語れない武勇伝」がヤマのようにお持ちの方だった。ナイルレストランは母の時代から出入りしていたが、僕の時代でも時折とんでもない人がフラッとリムジンで食事に来ていた。

有楽町「ママ」と同じくらい日参していたのは、ソニービルの地下にあった「ハンターレコード」と高速道路の下にある銀座ファイブの二階にあった「ハンターレコード」いずれも当時は在日してた米兵が帰国するときに手放していくLPがポロポロと入る店だったから、それも破格で手に入る店だったから、日参してたね。ここで随分とLPレコードを買った。

昭和22年
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました