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小説・バーチェットのヒロシマ#04

9月2日朝。ミズリー号での降伏文書調印の日。連合軍も新聞も、すべてペリーが上陸した湾に向いていた。バーチェットも、GHQ本部が入っている横浜税関のビルにあるプレスセンターへ出かける準備をしていた。
そこに、チケットと荷物を持ったkappaが来た。
「バーチェットさん、今日だぜ。みんながミズリー号を見てる。この間隙を突くぜ。駅でそれとなく目を光らせているMPも今日ばかりは気がそぞろだ。行くぜ、広島」kappaが笑って言った。

同盟通信社が用意してくれた列車の切符は往復だった。バーチェットはkappaに急かされてカメラとタイプライターと、いつも手放すことが無い手帳だけを持って横須賀線に乗った。たしかに駅の乗降客も乗客も疎らだった。東京にもMPの姿は少なかった。二人は他の客に紛れて、不定期ながら走っている東海道線に乗った。車内で回ってきた車掌に広島行きの切符を出すと、怪訝そうに二人を交互に見たが何も言わなかった。結局、列車は列車は何回も乗り換えるしかなかった。ホームで長く待たされることもあった。外国人のバーチェットは異彩を放っていたが、傍に寄り添う小男の日本人が荷物の大半を持っていることで、おそらく商用だろうと思われたに違いない。だれからも不審尋問はされなかった。

・・半壊の広島駅に着いたのは同日日曜日の深夜である。
東京からの途中、汽車の窓を叩いていた雨は漸く止んでいた。気温20℃。少し太めの三日月が空にあった。
バーチェットが到着したヒロシマは、まさに闇の中にあった。街に光はない。照らすのは雲間に霞む朧月だけである。それでも、その異様な静けさと臭いはバーチェットを圧倒した。
「なんだ?この臭いは?」バーチェットが思わず言うと
「コンクリートが焼かれた臭いさ。戦争で焼け落ちた街の臭いだ」kappaが言った。「行くぜ、広島警察署へまず行こう。行けばあそこが後は何とかしてくれる」

二人は歩いた。街の中・街の中へと。駅から少し離れると街は闇に沈んだ。明かりは異様なほど何もなかった。音は時折瓦礫が崩れるような音だけだった。
やがて夜が明けていく。
すべてが陽の光の下に晒されたとき、バーチェットは茫然とした。
彼はこう書いている。
「ヒロシマは爆撃された都市のようには見えない。まるで怪物スチームローラーが乗り上げて、跡形もなく押し潰してしまったかのようだ。記者は事実が世界への警告として役立つように願い、できるだけ感情を抑えて事実を書く」

ただ一撃で全ての営みが破壊され、夢も希望も命と共に燃え尽くされ、無数に転がる芥と、蒸発し壁に塗り込められた命の残滓を前にして、バーチェットは担いで来たタイプライターを崩れた壁の上に置き、震えながら記事を書いた。
以下、その訳文を載せる。
***
最初の原子爆弾が市街を破壊し、世界を震撼させてから30日後のヒロシマで、大異変で負傷しなかった人びとが原子の疫病としか表現できない――謎めき、恐ろしい――未知の何かのために今でも死んでいる。ヒロシマは爆撃された都市のようには見えない。まるで怪物スチームローラーが乗り上げて、跡形もなく押し潰してしまったかのようだ。記者は事実が世界への警告として役立つように願い、できるだけ感情を抑えて、事実を書いている。

記者はこの最初の原子爆弾実験場で、戦中の4年間で最も恐ろしく驚くべき廃墟を見た。これでは、猛攻を受けた太平洋の島がエデンの園に見える。被害は写真で見るよりはるかに甚大である。

ヒロシマに到着すると、25平方マイルか、おそらく30平方マイルは周囲を見渡すことができ、建物はほとんど見当たらない。そのような人為の破壊を目にすれば、胃の腑に空虚な感覚を味わうことになる。

記者は消失した市街の中心部にある、一時的な警察本部に使われている小屋への道をたどった。そこから南を見ると、3マイルほどかなたまで赤色がかった瓦礫を見ることができた。すべて、原子爆弾が残した多数の街路の敷石の、ビルの、家屋の、工場の、そして人間の残骸である。立っているものはなにもなく、20本ほどの煙突――工場を失った煙突――ばかり。そして、内部が全焼した数棟のビル。その他、やはりなにもない。

ヒロシマの警察署長は、記者を市に辿り着いた最初の連合軍報道人として張り切って歓迎してくれた。署長は、日本最大手の通信社、同盟通信の支局長とともに記者を車に乗せて、市街を通り抜けたが、いやむしろその上を走らせたというべきだろう。署長は被爆者らがいまだに治療を受けている病院に記者を連れていった。病院内で記者は、爆弾が落ちたとき、まったく負傷もしなかった人びとが、いまや説明のつかない後遺症状で死んでいるのを知った。明らかな理由もなく、被爆者らは健康を損ないはじめていた。食欲をなくしていた。脱毛していた。体表に青あざが現れた。すると、耳、鼻、口から出血がはじまった。医師らによれば、最初、全身衰弱症候であると考えていたそうだ。医師らは患者にビタミンA注射を施していた。結果は凄まじかった。注射針を刺した穴から肉が腐りはじめた。すべての症例で、被爆者は死亡した。これが人類最初の原子爆弾投下による後発効果のひとつであり、記者としては、このような症例を二度と見たくもない。

記者の鼻は、以前に嗅いだいかなるものとも違った独特の匂いを嗅ぎとった。硫黄に似たなにかだが、まったく同じではなかった。まだくすぶっている火のそばを通るとき、あるいは残骸から遺体を回収している現場を通るとき、それを嗅ぎとれた。だが、その匂いは、いまだにすべてが見捨てられている場所なら、どこでも嗅ぎとれたのである。ウラニウム原子の核分裂による放射能が浸透した土砂が発散する毒性ガスがかもしているのだと人びとは信じていた。だから、ヒロシマの人びとは、かつて自慢にしていた市街の惨憺たる廃墟のなかを鼻と口をガーゼのマスクで覆って歩いている。たぶん身体的には役立たないだろう。だが、気休めには役立つ。

この荒廃がヒロシマを見舞った瞬間から、生き残った人びとは白人を憎んできた。それはほとんど爆弾そのもの同様に驚異的な憎しみだった。確認死者数、53,000人。他に30,000人が行方不明であり、これは確実に死んでいることを意味する。記者がヒロシマに滞在した当日、100人がその影響で死亡した。その人たちは爆発による重傷者13,000人の一部だった。悲劇的な過ちがなければ、これら死傷者はそれほど多数になっていなかったかもしれない。軍当局はこれを単なるスーパーフォート攻撃(B29爆撃隊空襲)のひとつと考えていた。航空機が標的の上空を飛び、爆弾を爆発点に運ぶパラシュートを投下した。米軍機は視界から飛び去った。警報解除サイレンが鳴りひびき、ヒロシマの人びとは防空壕から出てきた。ほぼ1分後、爆弾は爆発時限を同期されていた高度2,000フィートに達し、その瞬間には、ヒロシマのほとんど全員が街路に出ていた。

幾千、幾万人の死者たちは、爆弾が発した強烈な熱線にひどく焼かれ、老若男女の見分けがつかないほどだった。他の何千人かは爆心近くにいて、跡形もなかった。ヒロシマで聞いた説では、原子の熱があまりにも強大なため、その人たちは瞬時に焼かれて灰になったということだ――もっとも、灰も残らなかったが。読者諸賢がヒロシマの残骸をご覧になれるなら、ロンドンに爆弾は触れもしなかったとお考えになられるだろう。かつて威容を誇っていたビル、インペリアル・パレスは3フィート高さの瓦礫の山になっており、壁の一面が残るのみである。屋根、床、すべてが塵芥である。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました