佃新古細工#05/"宮した"に在った叔父の作業場
ムカシゃどこのウチだって神棚くらいはあった。大仰なもンじゃないよ、小振りだよ。それでも、ご先祖様と逝っちまったジジババの写真、チンとお灯明くらいは乗ってる棚があった。
・・色ンなものが少しずつ喪失していくのは世の習いなんだろうけど、日常の中に混ざりこんでいた神ごとまでが消えてしまうのは、なんとも寂しい。追善供養という言葉が僕は好きだ。"供養"は神仏万象への感謝の心だ。そんな気持ちが希薄になってしまうほど、僕らは心の井戸を深くしてしまったのだろうか。
敬語が曖昧な「首都圏語」について思いめぐらせていると、その背景にある心模様の大きな変転が見えるように気がしてならないのです。でも・・まあ・・心を奮わせて・・書きます。
元佃の僕の生家にも神棚は有った。
父が存命だったころから在ったかは分からない。でも僕が物心ついたときは普通に居間の隅に・・襖の上に有った。その下は叔父の拵えモノをする作業場になっていた。叔母はその一隅を"宮した"と呼んでいた。大神宮(ちっさいけど)様の下だから"宮した"だったんだろうな。
朝、ご飯が炊けると叔母は小さなお椀に綺麗にご飯を持って僕に渡した。
「のの様に」と言った。
のの様なんて言葉も聞かなくなったね。「如来さま」が転じて「のの様」となったという話を聞いたことがあるが、ほんとのとこは知らない。神仏わけ隔てなく「のの様」ってたしな。
神棚は襖の上だったから、子供の僕には届かない。だから"宮した"に置いてある叔父が作った脚榻の上に乗って供えた。
「宮したはオッさんの道具が散らばってるからね、転ぶんじゃないよ」と叔母は必ず言った。
叔母夫婦は、叔母は叔父を「オッさん」と呼び、叔父は叔母を「おリキさん」と名前で呼んでいた。二人の夫婦関係が判る絶妙な呼び名だ。ちなみに僕は「じぃじ・ばぁば」と呼んでいた。
「宮した」は叔父の聖域で、叔母は何ひとつ触らない。叔父が途中で厭いて投げた拵えモノもそのまま置かれていた。手のひらに隠れてしまいそうな小さな鉋(かんな)や小さな鑿(のみ)が蓋のない道具箱の中に整然と並んでいた。こうした道具を使って叔父は木っ端を使って実に色々なものを作った。その作ったものは出来上がると無くなっていたから・・商いにはなっていたのかもしれない。
一度、ガッコ(佃小学校)で使う、小箱を幾つか作ってくれるという話になったことがある。
僕の目の前で、叔父は手際よくそれを作って見せた。そのとき、前述の小さな鉋で木っ端の表面を削ると、サッと水を拭いて二つを付けた。そして「ほら、取ってみろ」と言った。
水で付けられた二片の木っ端はどうやっても剝がれなかった。
「昔の名人達人といわれた職人は続飯(そっくい)なんぞ使わなくても造作できたんだ」
続飯(そっくい)なんて言葉もきれいになくなったな。米粒(本寸法はうるち米)から作る糊だ。朝、拵えモノを始める前に、叔父は柔らかく炊いた飯粒を板の上でへらで丹念につぶしてコレを支度していた。
僕が見ていると「ほれ、手伝え。小遣いやるから手伝え」と、へらを渡されたな。
あ。思い出した。そういや叔父さんは釘は使わなかった。続飯と組木だけで拵えモノをしてた。・・宮大工の係累だったのかな。今となっては分からない。だから「宮した」に作業場を拵えていたのかな。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました