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ボルトーれきしものがたり

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2020年11月の記事一覧

ボルドーれきし ものがたり/2-4 "パクス・ロマーナ"

ボルドーれきし ものがたり/2-4 "パクス・ロマーナ"

ブルディーガラの戦いは、このジロンド/ガロンヌ川の畔に作られた交易都市ボルドー/ブルディーガラの有用性を強くローマへ印象付けしました。ブリテン島/ブルターニュ地方との錫区交易地点として、高機能に活動しており、属州の外にあるとはいえ此処を"租税回避地区"にしておくのは宜しくない。そう考えたのです。



以降ブルディーガラは、ビトウリグム・ヴィービスコルム共同体civitas Bitungum

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ボルドーれきし ものがたり/2-3 "ブルディーガラの戦い"

ボルドーれきし ものがたり/2-3 "ブルディーガラの戦い"

租税回避地(タックスヘイブン)だったブルディーガラ(ボルドー)は、膨大な富が集約する地になると、ナルボンシスから来た商人/豪農たちによって、急速にローマ化し巨大化していきました。富に任してあらゆるものがローマから運ばれ、ブルディーガラはほんの数十年でまさに小ローマになっていったのです。それは地中海側のナルボンシスも同じでした。商人/豪農は金にモノを云わせて最新の文化をローマから取り寄せ、我が世の春

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ボルドーれきし ものがたり/2-2 "租税回避地"

ボルドーれきし ものがたり/2-2 "租税回避地"

河口から71kmあまり入ったところで、ジロンド河はガロンヌ川とドルドーニュ川に分かれます。そのガロンヌ川側をさらに10kmほど入ると、川筋は大きく曲がります。そこにブルディーガラBurdigala(ボルドーの古名)と云う町を最初に作ったのは、ビトゥリゲス・ウィウィスキ族Bituriges Vivisciだったとローマは記録しています。B.C.300年頃です。

最初の町はガロンヌ川から西に走る支

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ボルドーれきし ものがたり/2-1"ノールーズ峠"

ボルドーれきし ものがたり/2-1"ノールーズ峠"

第二章/ガロロマン時代 2-1 "ノールーズ峠"
ローマ人は現在のボルドーをブルディーガラBurdigalaと呼んでいました。なので彼らの時代の話をする間は、この名前で呼びたいと思います。
そのブルディーガラの南西部に、ローマは属州を持っていました。此処をローマはアキタニアAquitaniと呼んでいます。この地域に暮しているのがアキタニア人です。現バスク人の始祖とも云える人々です。
彼らは純

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ボルドーれきし ものがたり/1-10 "交易"

ボルドーれきし ものがたり/1-10 "交易"

メソポタミアの人々は、銅鉱を肥沃な三角地帯の東方・ザグロス山脈に求めました。フェニキア人/ギリシャ人はキプロス島に求めた。女神キュプリウムCYPRIUMの島に求めた。なのでギリシャ人は銅鉱のことをChalkósと呼んだ。英語ではCopperです。すべてがこの女神の名前を由来としています。対してエジプト人は、エジプト東部にこれを求めた。いずれにおいても採掘は極めて困難で重労働な上に精練も危険な作業で

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ボルドーれきし ものがたり/1-9 "ケルト02"

ボルドーれきし ものがたり/1-9 "ケルト02"

欧州大陸を北西へ拡散していったケルト人は、採鉱を能くした人々です。彼らは錫と銅を使って道具や武器を作る人々でした。そしてB.C.4000頃ブリテン島(イギリス)とブルターニュに至ります。ケルト文化はこの二つの地域で大きく開いた。

ところで・・彼らの進出経路を追っていると、どうも彼らは鉱脈を求めて進む道を決めていたように思えてしまいます。当時まだ青銅器は貴重な材料であり、大量生産は出来なかった。

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ボルドーれきし ものがたり/1-8 "ケルト"

ボルドーれきし ものがたり/1-8 "ケルト"

アルプスより北、森深い欧州大陸に住む人々を、ギリシャ人はケルトイKeltoiと呼びました。ラテン人/イタリック人(ローマ)はケルタエCeltae/ガリGalliと呼んだ。
つまり単一民族を指す言葉ではなく、遥か彼方の森に住む異民族たちを指して一緒くたに「ケルト人」あるいは「ガリア人」と呼んだのでした。 それでも、このギリシャ人/ローマ人が"ケルト人/ガリア人"と呼んだ人々には、ひとつの統一した特

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ボルドーれきし ものがたり/1-7 "伝播と拡範"

ボルドーれきし ものがたり/1-7 "伝播と拡範"

レヴィ・ストロースの知見を引用するまでもなく「焼くこと/煮ること」で、ヒトは食料を体内へ摂り込む時間を劇的に短縮させました。類人猿は、生肉を「呑みこめる状態」にするために、ほぼ半日これを噛み続けます。しかし原人たちは、これを焼く。あるいは土器の使用が始まると煮る。こうした加工をすることで、食材は圧倒的に短時間で体内に取り込めるようになると、彼らは発見したのです。また幼少な者/老いた者も、栄養が摂取

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ボルドーれきし ものがたり/1-6 "交易と略奪"

ボルドーれきし ものがたり/1-6 "交易と略奪"

狩猟採取によって個体生存必要食料量(800,000cal/人/年)を得るには0.11人/km2が必要です。ヒトが生存可能地区でのヒトの員数は限界値がありました。ボルドー地区ではおそらく4000人程度だったろうと、前回書きました。 では。なにがこの限界値を突破させたか? 牧畜と原始的な農耕です。
牧畜と原始的な農耕は、自然発生的に各地でほぼ同時期に発生したと見るべきでしょう。
花粉分析によると、

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ボルドーれきし ものがたり/1-5 "繁殖限界値"

ボルドーれきし ものがたり/1-5 "繁殖限界値"

50,000年ほど前に出アフリカ後を果たしたヒトは、個体数2,000体ほどだったものが、40,000年ほどかけて600万人くらいまでに増えたとF.A.Hassanが試算しています。(Demographic Archeology. Academic Press,1981)
彼の試算によると、世界の居住可能総面積9800万km2。このうち61.2%に、12,000年ほど前、ヒトは広がっていたとしてい

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ボルドーれきし ものがたり/1-4 "はじめにロゴスありき"

ボルドーれきし ものがたり/1-4 "はじめにロゴスありき"

最初に言語を使ったのは誰か?という問題は、最終的な見解が定まっていません。
この論議の中で最も著名な論者ノーム・チョムスキーは、我々に直接繋がるヒト類が10万年ほど前に"唐突に""ほぼ完全な状態で""ただ一つの個体から"始まった・・と主張します。そしてこれがパートナーに伝えられ、グループ全体に広がり定着した・・と。この説はかなり魅力的ですが、大半の学者は霊長類の中に有る意思疎通のための手段/プレ

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ボルドーれきし ものがたり/1-3ヒトが先天的に持つ"愛"というものについて

ボルドーれきし ものがたり/1-3ヒトが先天的に持つ"愛"というものについて

50,000年ほど前に「出アフリカ」した現生人類に繋がるヒトらは、スエズ地峡を越えた後しばらく小アジア地区に佇み、その後きわめて緩慢にですが欧州大陸全体へ/アジアへと四散して行きました。
この拡散に至るまでには、ほぼ30000年の時間が必要だった。その30000年の時の流れの中で、彼らの生物学的特徴である"巨大化した脳"は、如何ほど彼らにメリットを与えたか?
どう考えても、この硬い頭蓋骨の中に納

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ボルドーれきし ものがたり/1-2"出アフリカ"余儀なき旅立ち

ボルドーれきし ものがたり/1-2"出アフリカ"余儀なき旅立ち

ではなぜ。彼らはヴェゼール渓谷に定住したのでしょうか?
そもそもどのような経路を通って同地に至ったのか?
残念ながら、詳細には判っていません。大雑把に判っているのは・・
現生人類に繋がるヒトが生まれたのはアフリカ東海岸。75000年くらい前のことらしいということ。 そして彼らが"出アフリカ"をし始めるのは50000年前ごろ。まだまだヴュルム氷期真っただ中の頃です。



じつはヒト科と

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ボルドーれきし ものがたり/1-1 "ヴェゼール渓谷"

ボルドーれきし ものがたり/1-1 "ヴェゼール渓谷"

河口から71kmあまり入ったレ・ダンベース(le Bec d'Ambesアンベースの砂嘴)で、ジロンド河はガロンヌ川とドルドーニュ川に分かれます。そのドルドーニュ川側を少し遡って90kmほど行くと、ベルジュラックBergeracという町に辿りつきます。同地はワインが秀逸な地域ですが、新石器時代の遺跡が多数見つかる地域でもあります。紀元前3500年から3000年の新石器時代の村の遺跡が、ベルジュラッ

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