ボルトーれきしものがたり

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ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

カエサルが謀略で斃れ、それでもローマが帝政期に入った後、ガリアの地にある属州は元老院直属管理のナルボネンシス属州(アルプス以南)と3つの元首管理の属州ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア(アルプス以北)に纏められた。そしてルグドゥヌム(リヨン)を全ガリアの属州会議の開催地とした。

以後、ルグドゥヌム(リヨン)はガリア内の重要な拠点となり、ここを中心に四方へローマ街道が敷かれた。このローマ街道

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ボルドーれきし ものがたり/3-9 “ケルトとカエサル/強者が説く正邪"

カエサルの北征以降、ガリアの地は"ローマ化"に拍車がかかり、反ローマ的な動きは局地的なものになっていく。じっくりとガリアの地(欧州)にパクスロマーナ(ローマによる平和)が浸透していく。
・・しかし僕は考えてしまう。カエサルのガリア侵攻が無ければ・・パクス・ロマーナは、この地に無かったのか?カエサルのガリア侵攻にどんな意味も価値が有ったのだろうか。どう取り繕っても、カエサルの北征は私的蓄財が主目的

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ボルドーれきし ものがたり/3-8 "借金王カエサル"

カエサルのガリア北征の背景である「カエサルと彼を囲む人々の野心」について語るには、やはりどうしてもカエサルの出自に触れなければならない。

生誕はB.C.100年7月13日。名門だが没落した貴族(パトリキ系の傍系)である。決して豊かではなかった。84年に民衆派のキンナの娘コルネリアと結婚したため、閥族派のスラに嫌われ、彼が没するまで属州アジアおよびキリキアで従軍している。スラ死後ローマへ戻り、民

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ボルドーれきし ものがたり/3-7 "ゲルマンの台頭"

カエサルのガリア北征の背景は、大きく二つある。
ひとつは、カエサルと彼を囲む人々の野心である。
そしてもうひとつは、東方ゲルマン人の台頭だ。 
ローマは、ゲルマン人との境界線をドナウ川/ライン川としていた。そしてアルプスから北のガリアの地を、そのための緩衝地帯としていた。つまりアルプス→ドナウ川/ライン川→ゲルマン人の地、という棲み分けである。
しかしこれが、B.C.113から101年にかけ

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ボルドーれきし ものがたり/3-6 "ガリア人の信義/ローマ人の不義"

ガリアの人々の性格を示す逸話をひとつ、紹介したい。
B.C390年、最初のローマ・ガリア戦争の時。ガリアの族長ブレンヌスは特使を出して、ローマと話し合いの席を設けた。 
話し合いはローマ市の郊外で行われたが、その席で激昂したローマ将兵クイントネス・ファヴィウスが、ブレンヌスの特使を殺してしまった。ファヴィウスは貴族の子である。 

ガリアは怒り、すぐさまローマ総攻撃といきり立った。当時兵力は圧倒

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ボルドーれきし ものがたり/3-5"ローマ軍について"

ローマとは何かということについて大雑把な理解するために、ローマ軍の構造について書いてみたい。
軍の構造は、その民族の気質を見事に反映するものだからだ。
ローマ軍は、ローマの身分制度の延長線にある。
①元老院(貴族)②騎士③一般市民④半市民(解放奴隷/属州民)⑤奴隷
という構造である。
当初ローマ軍は常設されていなかった。諍いがあると②③から徴兵が行われ、其々の戦いに赴いた。軍役は市民にのみ有

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ボルドーれきし ものがたり/3-4"エトルリア"

ギリシャのヘロドトスは以下のように書く。

B.C.1000年頃、小アジア/リュディアにおいて・・ 
「…いくらかたっても飢饉は改善されず、そこで彼らはくじ引きをして、住民の半分は次の日にゲームをせずに食事をすることとした。こうして彼らは18年間を切り抜けたが、事態は改善されず悪化していった。このため王はすべてのリュディア人を2つのグループに分け、くじ引きによってどちらか一方が移民することとし、自

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ボルドーれきし ものがたり/3-3"エトルリア"

相変わらずガリアとローマの話は、ローマ側の一方的な話を聞きながら進めるしかない。 したがって僕の姿勢は「彼が何を言ったか」ではなく「何が彼にそう言わしめているか」に終始する。 
ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史(岩波文庫)」を横に置きながら続けたい。

紀元前390年、ガリアの族長ブレンヌスがイタリア半島を南進した。最前線で矢面に立ったのはエトルリア(ギリシャ語ではティレニア)だった。 

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ボルドーれきし ものがたり/3-2 "異民族蔑視"

そしてローマ人も、北の民をケルティと呼んだ。もっとも彼らの云う「北」は、当初イタリア半島の根元辺りのことだ。彼らが暮すラティウム地方の北東はEtruscanであり、北西はUmbrianである。それより北に住むのがCeltだったのだ。

ただ。ひとつ注意しなければならないのは、ここで話題にする問題についての一次資料がティトゥス・リウィウスTitus Livius(B.C.59年頃-17年)がアウグ

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ボルドーれきし ものがたり/3-1 "バルバロイ"

エドワード・サイードはその著「オリエンタリズム」のなかで、欧州人の異民族蔑視は古代ギリシャから始まると書いている。西洋/東洋と言う分類も祖はギリシャであると。

現代社会でもそのまま息づいている「西洋(優)=先進国/東洋(劣)=後進国」という図式は、大航海時代を経て強く補完されたが、それ以前にギリシャ時代から連々と続くバルバロイbarbaroi(蛮人)思想が背景にあると言う。
しかしこのバルバ

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