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ボルトーれきしものがたり

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ボルドーれきし ものがたり4-3/"葡萄の時代"#02

ボルドーれきし ものがたり4-3/"葡萄の時代"#02

大洪水の時、葡萄農夫だったノアが箱舟に持ち込んだモノ。それがすべてワインの源だと神話は語ります。そして水が引いた後、ノアがアララト山に葡萄畑を作りそこでワインを作ったと。。あながちこの話が蔑ろにできないのは①どうやら僕らが使用しているワイン用の葡萄は原種がアララト山の北側らしいこと。②ワインのための葡萄の木は、寄木でしか増えないこと。
残念ながら、今でも残っていると言われる「ノアの畑」には、僕らは

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ボルドーれきし ものがたり4-3/"葡萄の時代"#02

ボルドーれきし ものがたり4-3/"葡萄の時代"#02

ビトゥリカBituricaという寒冷対応種の登場が、ピレネー山塊を越えたアキテーヌ盆地南側地帯での葡萄栽培を可能にさせました。そしてこれがブルディーガラでワインを売っていた人々のビジネスモデルを大激変させたのです。今回はその話を。
葡萄の木を寒冷地で栽培するには、耐寒種を交配によって作り出さなければならないのです。葡萄は温暖地の植物ですから、この壁は極めて高い。したがって葡萄をイタリア半島以西の

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ボルドーれきし ものがたり4-2/"葡萄の時代"#01

ボルドーれきし ものがたり4-2/"葡萄の時代"#01

物流コストは、当然"距離"が大きな要素の一つになる。特に陸路の場合、これが顕著です。それも有って、ナルボンヌの港から出荷されるナルボンシス製のワインは、当初港に近い地域で栽培され醸造されたものが中心でした。それが拡大したのは、ふたつの理由です。
①ニーズ(需要)にシーズ(供給)が間に合わなかったこと。
②そして退役軍人の増加です。
イベリア半島東側の諸都市との諍いに参戦した兵士たちは、報償とし

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ボルドーれきし ものがたり/4-1"ストラボンとプリニウス"

ボルドーれきし ものがたり/4-1"ストラボンとプリニウス"

カエサル軍がブルディーガラ(ボルドー)に残した最大の問題は、この街の豊かさをローマに強く印象つけたと云うことです。
ローマ属州の外に(意図的にか)作られたブルディーガラは、租税回避地(タクスヘィブン)でした。如何に大きな商取引があっても、ローマはこれに課税できなかった。だからこそ挙って、地中海側の商人がこの地に居を構え、北のガリア人も集まったのでした。沼地の真ん中にある丘の上に街が出来上がったのは

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ボルドーれきし ものがたり/3-11  "ブルディーガラとカエサル"

ボルドーれきし ものがたり/3-11 "ブルディーガラとカエサル"

クラッスス率いるカエサル軍1個軍団がブルディーガラ(ボルドー)へ入ったのは、B.C.56年。ブルターニュ/ノルマンディへ派兵した帰り道でした。ブルディーガラの商人たちは、之を大歓迎した。ローマに逆らうつもりは全くない。その態度を全市が挙げて示したのです。

軍団長だった若きプブリウス・リキニウス・クラッススPublius Licinius Crassusは、第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニ

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ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

カエサルが謀略で斃れ、それでもローマが帝政期に入った後、ガリアの地にある属州は元老院直属管理のナルボネンシス属州(アルプス以南)と3つの元首管理の属州ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア(アルプス以北)に纏められた。そしてルグドゥヌム(リヨン)を全ガリアの属州会議の開催地とした。

以後、ルグドゥヌム(リヨン)はガリア内の重要な拠点となり、ここを中心に四方へローマ街道が敷かれた。このローマ街道

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ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

カエサルが謀略で斃れ、それでもローマが帝政期に入った後、ガリアの地にある属州は元老院直属管理のナルボネンシス属州(アルプス以南)と3つの元首管理の属州ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア(アルプス以北)に纏められた。そしてルグドゥヌム(リヨン)を全ガリアの属州会議の開催地とした。

以後、ルグドゥヌム(リヨン)はガリア内の重要な拠点となり、ここを中心に四方へローマ街道が敷かれた。このローマ街道

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ボルドーれきし ものがたり/3-9 “ケルトとカエサル/強者が説く正邪"

ボルドーれきし ものがたり/3-9 “ケルトとカエサル/強者が説く正邪"

カエサルの北征以降、ガリアの地は"ローマ化"に拍車がかかり、反ローマ的な動きは局地的なものになっていく。じっくりとガリアの地(欧州)にパクスロマーナ(ローマによる平和)が浸透していく。
・・しかし僕は考えてしまう。カエサルのガリア侵攻が無ければ・・パクス・ロマーナは、この地に無かったのか?カエサルのガリア侵攻にどんな意味も価値が有ったのだろうか。どう取り繕っても、カエサルの北征は私的蓄財が主目的

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ボルドーれきし ものがたり/3-8 "借金王カエサル"

ボルドーれきし ものがたり/3-8 "借金王カエサル"

カエサルのガリア北征の背景である「カエサルと彼を囲む人々の野心」について語るには、やはりどうしてもカエサルの出自に触れなければならない。

生誕はB.C.100年7月13日。名門だが没落した貴族(パトリキ系の傍系)である。決して豊かではなかった。84年に民衆派のキンナの娘コルネリアと結婚したため、閥族派のスラに嫌われ、彼が没するまで属州アジアおよびキリキアで従軍している。スラ死後ローマへ戻り、民

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ボルドーれきし ものがたり/3-7 "ゲルマンの台頭"

ボルドーれきし ものがたり/3-7 "ゲルマンの台頭"

カエサルのガリア北征の背景は、大きく二つある。
ひとつは、カエサルと彼を囲む人々の野心である。
そしてもうひとつは、東方ゲルマン人の台頭だ。
ローマは、ゲルマン人との境界線をドナウ川/ライン川としていた。そしてアルプスから北のガリアの地を、そのための緩衝地帯としていた。つまりアルプス→ドナウ川/ライン川→ゲルマン人の地、という棲み分けである。
しかしこれが、B.C.113から101年にかけ

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ボルドーれきし ものがたり/3-6 "ガリア人の信義/ローマ人の不義"

ボルドーれきし ものがたり/3-6 "ガリア人の信義/ローマ人の不義"

ガリアの人々の性格を示す逸話をひとつ、紹介したい。
B.C390年、最初のローマ・ガリア戦争の時。ガリアの族長ブレンヌスは特使を出して、ローマと話し合いの席を設けた。
話し合いはローマ市の郊外で行われたが、その席で激昂したローマ将兵クイントネス・ファヴィウスが、ブレンヌスの特使を殺してしまった。ファヴィウスは貴族の子である。

ガリアは怒り、すぐさまローマ総攻撃といきり立った。当時兵力は圧倒

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ボルドーれきし ものがたり/3-5"ローマ軍について"

ボルドーれきし ものがたり/3-5"ローマ軍について"

ローマとは何かということについて大雑把な理解するために、ローマ軍の構造について書いてみたい。
軍の構造は、その民族の気質を見事に反映するものだからだ。
ローマ軍は、ローマの身分制度の延長線にある。
①元老院(貴族)②騎士③一般市民④半市民(解放奴隷/属州民)⑤奴隷
という構造である。
当初ローマ軍は常設されていなかった。諍いがあると②③から徴兵が行われ、其々の戦いに赴いた。軍役は市民にのみ有

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ボルドーれきし ものがたり/3-4"エトルリア"

ボルドーれきし ものがたり/3-4"エトルリア"

ギリシャのヘロドトスは以下のように書く。

B.C.1000年頃、小アジア/リュディアにおいて・・
「…いくらかたっても飢饉は改善されず、そこで彼らはくじ引きをして、住民の半分は次の日にゲームをせずに食事をすることとした。こうして彼らは18年間を切り抜けたが、事態は改善されず悪化していった。このため王はすべてのリュディア人を2つのグループに分け、くじ引きによってどちらか一方が移民することとし、自

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ボルドーれきし ものがたり/3-3"エトルリア"

ボルドーれきし ものがたり/3-3"エトルリア"

相変わらずガリアとローマの話は、ローマ側の一方的な話を聞きながら進めるしかない。 したがって僕の姿勢は「彼が何を言ったか」ではなく「何が彼にそう言わしめているか」に終始する。
ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史(岩波文庫)」を横に置きながら続けたい。

紀元前390年、ガリアの族長ブレンヌスがイタリア半島を南進した。最前線で矢面に立ったのはエトルリア(ギリシャ語ではティレニア)だった。

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