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猫田による猫田のための、口封じ。

話したいことを話せなくなるっていうのは、とても悲しいことだなって思う。それは好きな漫画の話であったり、自分を慕ってくれていた後輩の話であったり、はたまた自分自身の思想そのものであったりする。

物理的に話すことができなくなる、というわけではない。第三者に物理的に口をふさがれるなんていうのは、もはや大事件だ。あいにくというか、幸いというべきか、そんな状況に陥ったことはまだない。今後もそういうことが起こらないことを祈るばかり。

それは精神的なものあるいは状況的なもの。社会的なもの。目に見えない何かの力によって、私は時に口封じをされてしまう。

不可視の力がはたらく理由もなんとなく察しがついている。
否、ここで話をしてしまうとよくないことが起きるのではという予想があるから口をふさがれる。ということは、自分の想像に首を絞められている…?

私は今の今まで、私でない他の何者かに口封じをされていると思い込んでいたけれど、そうでない。封じているのは自分自身なのだろうか。

話をしたい自分とはまた別の自分。それが第三者の代わりに私の言葉を封じてしまっている。とすると、その第三者っていうのはきっと、社会とか世間とかいうものに違いない。ような気がする。

社会とか世間とかそういうのって、何言ってんだって思う。結局それって何なんだって根本をたどって行けば、個人個人の集まり以外の何物でもない。そのはずなのだから。そのはずなのだけど。

なんだか生きていると、個人以上の大きな見えない力が世界を覆っているように思える。その強大な幻覚のことを社会だって認識するように、人間はできているのかもしれない。

ひとが一定数集まることで、個人では生じ得ない力が生じるのは事実なのだし。そもそも他者との関係があるから個人が生じているという説もあるのだし。とんでもない大きな力の存在を信じるのはしょうがないのかもしれない。
何の話をしているのかわからなくなってきた。

さて口を封じているのが自分自身とわかったところで、これから私はどのような場面においても言いたいことを言いたいだけ言えるかっていえば、そういうわけにはいかないのだろう。

言いたいことも言いたくないことも、言えることも言えないことも、全部抱えて選び取って言葉にするのが、人と人の間に生きていくということなのかもしれない。そういうまどろっこしいところが生きることの苦悩であって、かつ幸福だなんてこともあるんだろうか。

猫田による猫田のための、口封じ。

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