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テイクオフ(短編)

文学フリマ東京38にて頒布した短編集『迷宮遊覧船』収録作。
じつは某コンテスト落選作なのですが (箸にも棒にも引っ掛からなかったぜ)、本をご購入いただいた方から意外なほど好評だったので、公開することにしました。面白がってくれる人もいるんだ!と大変勇気づけられました。ありがとうございます。
約10000文字、軽い気持ちで読んでいただける奇想コメディです。お楽しみいただけましたら幸いです。
なお恐縮ですが、会場や通販でご購入いただいた方に申し訳ないので、後半は有料(100円)とさせていただきます。ご了承ください。

 『 テイクオフ 』

 死んで生き返ったら、背中に滑走路ができていた。
 シャワーでも浴びるかとTシャツを脱いだ俺は違和感を感じ、洗面台の鏡に背中を映してみた。
 肩幅も、筋肉の厚みもない、だが長さだけはある、もう若くはない背中。
 この貧相な背中は間違いない、俺の背中だ。
 だが肌は濃い灰色に染まり、背骨に沿って真っすぐな白い点線が引かれていた。腰のあたりには横断歩道のような短い縞々模様――
 滑走路。
 それにしか見えない。ジェット機が飛び立つための、あの滑走路だ。
 俺は目眩を感じ、ふらついて洗面台の端に手をついた。
 てらてらと光る陶器の曲面を見つめていると、あのガイコツの青白い顔を思い出した。
 そいつは死神だった。そして俺にこう言ったのだ。
 ――あなたの人生に、好きなイメージをひとつ加えて差しあげます。
 
 その日、俺は海外に旅立つ友人を空港まで見送りに行った。
 回想の中ですら彼女に「友人」と言う言葉を使う、自分の強情さに呆れる。
 見送りの友人や同僚に囲まれている彼女を遠巻きに眺め、彼らが去った後、搭乗口へ向かう背中にようやく声をかけた。
 振り向いた彼女は動きを止め、笑ったような怒ったような、複雑な表情を浮かべた。
「大物になるまで帰って来るなよ」
 いや違う、そんなことを言うつもりじゃなかった。彼女はキュッと薄い唇を噛み締めてから、
「大物になったら帰って来ないよ」
 今度は間違いなく笑った。そして再び背中を向けた。
 小柄な身体と同じくらいのスーツケースを引っ張っていく。神々しいまでに凛とした背中。それは人生を賭けた者にしか与えられない背中だ。それは知っている。嫌というほど知っている。今まで何回も、その背中を見て来たから。
 若い頃には根拠のない自信があった。いつか自分もその背中を持つ側の人間になるのだと。なのに、どういうことだ。いまだにロビーの端っこに立ち、背中を見送る側にいる。
 彼女は振り返りもせず、拍子抜けするほど呆気なく、姿を消した。
 俺は夢遊病者のように空港のデッキに上がった。
 彼女を乗せた旅客機を探して見回すと、機体はすでに動き出していた。
 白い巨体が滑走路を進んでいく。疑いもせずに進んでいく。
 それをぼんやりと眺めながら思う、旅客機は「躓くかも」とか「途中で足が攣るかも」とか躊躇うことはないのだろうか。ないよな。よく眠れなかったせいか、頭に霧がかかったようだ。
 速度を上げた。息を呑むような美しい疾走。
 この滑走路は自分のためだけに造られた、機体はきっとそう信じ込んでいる。
 そして――舞い上がった。
 重力の手を振り切って。俺の手を振り切って。
 機影は見せつけるかのように大きな楕円を空に描くと、瞬く間に青い空に吸い込まれていった。梅雨が明けたばかりの青空が、ただただ眩しい。
 俺はデッキを後にして、そのまま駅へ向かった。頭の中の霧はさらに濃くなっていて、視野にまで溢れ出していた。
 そして下りのエスカレーターに乗ろうとして足を踏み外し、真っ逆さまに転げ落ちて、俺は死んだ。
 
「ま、間違えちゃったんです、私」
 そいつは青に近いくらい真白なガイコツだった。
 黒いタオルケットみたいな外套を頭からすっぽり被っている。強張った声で「し、死神です」と名乗っていた。
 俺がいるのはビジネスホテルのロビーのような無機質な空間で、俺とそいつは向かい合わせになって座っていた。紫色をした霧が薄く流れていて、やけに静まり返っていた。
その静謐な雰囲気とそぐわない、素っ頓狂な声でそいつは言った。
「あなたが死ぬのは今日じゃなかったんです。ごめんなさーい。上の者にも怒られてしまって、はい」
 内容は絶望的なのに、口調はあっけらかんとしていた。そのせいか、
「間違って死んだのか、俺は」
 自分でも驚くほど冷静な声が出た。死神は、
「す、すみませんでした」
 焦ったように目を白黒させた。正確には、目に空いた丸い穴を白黒させた。器用だな、とぼんやり眺めていると、急にやつは背筋を伸ばして、
「大丈夫です、生き返っていただきます!」
 いきなり立ち上がって言った。
「生き返る?」
 死んだこともまだ信じられないのに、いきなり生き返る話とは。ついていけない俺を無視して、やつは話を続ける。
「生き返る際にですね、お詫びとしてあなたの人生にお好きなイメージをひとつ加えて差し上げます」
「好きなイメージ?」
「あ、これは口止めとかそういう非合法的なやつじゃなくてですね、我々の規則で決まっていますです。ただ具体的なやつは駄目なので、そこはご容赦を」
「どういうこと?」
「ええと例えば、女性になりたいとか、社長になりたいとか、海外に住みたいとか。そういう具体的なやつは人生が変わりすぎてしまうので駄目なんです、はい」
 たどたどしく説明しながら、黒いハンカチで何度も顔の冷や汗を拭う。骨のどこから汗が出るのか知らないが。死神がこんなに滑稽で哀れだとは思わなかった。でかい鎌も持っていないらしい。
「そういうわけでして、もう少しフワッとした、雰囲気というか、イメージ的なやつでお願いします」
「フワッとした? 雰囲気? イメージ?」
 ガイコツが激しく頷く。剥き出しの歯がカチカチと鳴った。
「よくわからないな。たとえば、どういう?」
「そうですねぇ、今までですとぉ」
 ということは、以前にも間違えて死なせたやつがいるのか。顔をしかめた俺にはまったく気づかない様子で、やつはあたふたと外套の内側を探り、一冊の小汚いノートを取り出した。  
 こそこそと骨の指先で不器用そうにページをめくり、しばらくして「あったあった」と呟いた。俺のほうへ向き直る。
「たとえばですね……夏のひまわり畑を横切る風のようになりたい」
「ん?」
「と、願った人がいました。それから」
 ノートをめくる。
「山奥の波ひとつ立たない澄んだ湖面のようになりたい」
「んん?」
「誰も知らない図書館の地下深い棚に置かれた魔法書のようになりたい、とか、故郷の川を遡って産卵したのに死なない鮭のようになりたい、というのもありました」
 なるほど、なるほど。とりあえず俺を入れて五人は死なせているのか。
 それはさておき、最後の死なない鮭と言ったやつ、ちょっと気になるな。男なら飲みながら話をじっくり聞き出したいし、女なら、やっぱり飲みに行きたい。
 いや、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「つまり、なりたい自分を何かのイメージに託せばいいと言うことか?」
「そうですそうです、託しちゃってください」
 剥き出しの前歯を見せつけてくる。たぶん愛想笑いだろう。
「少し時間をもらっていいか?」
「もちろんですとも」
 俺は目を閉じた。人生に付け加えたいイメージ。何かあるだろうか?
 だが悩むまでもなく、すぐに瞼の裏にあの白い機影が現れた。翼を広げ、眩しいほどの青空へ吸い込まれていく凛とした姿――これだ、これしかない。
「滑走路を駆け抜け、高く舞い上がるジェット機のようになりたい」
 そう伝えようとした。伝えようとしたのに、やつは俺が「滑走路を」と口にしたところで、
「了解しまっしたぁ!」
 甲高い声で叫んだ。
「えっ、ちょっと待っ」
 見れば、骨の指を五本ピシッと揃えて敬礼している。嫌な予感がした。
 そして俺は生き返った――背中に滑走路のある男として。

 それからスマホで「死神 背中 クーリングオフ」などと錯乱した検索をした後、脱力して洗面所にしゃがみ込んだ。
 退院したのは昨日だ。思い返してみたが、病院では背中のことは何も言われなかった。頭の打ちどころが悪かったらしいが、身体はどこも悪くない。と言うことは、昨晩寝ている間に滑走路になったということか。医者や看護師にこの背中を見られなかったのは不幸中の幸いだろう。
 浴室に跳び込み、シャワーを浴びた。洗ってもこすっても背中の点線や縞模様は消えない。そもそも背中だけ皮膚の感触がおかしい。硬いのだ。まるで舗装された道路のように。
 深く考えたくなかったので一旦保留にして、ふらふらと浴室から出た。Tシャツを着るのも億劫だった。上半身裸のままで居間へ出ると、ソファの足に躓いた。踏ん張る気力もなく、俺はそのまま顔からソファへ突っ込んだ。
「ひゃっ」
 裏側から声がした。驚いて覗き込むと、五歳になる甥っ子が膝を抱えていた。
 俺がいるのは姉の家である。俺は独り暮らしなので、体調が完全に戻るまで姉の世話になることにしたのだ。
 姉とはたまにしか連絡を取ってなかったので、突然の病院からの連絡に激しく動揺したらしい。しかも彼女が到着したのは、ちょうど俺の心臓が止まった時だった。腰が抜けて廊下に座り込んでいると、すぐに俺が生き返ったと知らせを受けて、さらに腰が抜けたらしい。そんなこともあって、退院後は自分の家に来るようにと強く説得されたのだ。ありがたい話ではある。
 加えて、ちょうど、と言うのもなんだが、義兄とは別居中だった。
「どうした?」
 甥っ子は小さな唇をキュッと噛み締めて、俺を見上げていた。
 時間的に、てっきり姉と習い事に出掛けたものと思っていた。見れば、玄関先にその姉が立っている。厳しい視線をこちらに向けていた。
 慌てて、背中をソファの背もたれに押しつけて隠した。洗面所での独り言を聞かれただろうか。
 だが彼女の視線は俺ではなく、息子に注がれていた。
「ほら、もう行くよ!」
 玄関のドアを片手で押さえたまま、声を投げた。
「どうした?」
「言ったでしょ、体操教室に入ったって」
 ちらちらと腕時計に目をやっている。
「自分でやりたいって言ったから入会したのに、急に行きたくないって言い出して」
「行きたいけど、こわくなったんだ」
 甥っ子は消えそうな声を絞り出した。年長で身体も大きいが、性格は大人しくて内気なやつなのだ。たまにしか会わない俺にもあまり懐いていない。が、その性質は完全に俺と同じだな、と感じていた。俺は彼に言葉を掛けた。
「まぁわかるよ。新しい場所に飛び出すのは怖いよなぁ」
 この子も飛び立っていく背中を見送る側になるのか、そう思って切なくなる。が、彼はパッと明るい顔になった。
「おじちゃんも?」
「うん、そうだよ。それに……」
 わざと大袈裟に声を潜めた。
「ママも今はあんなだけど、子供の頃はピアノの日になると、ぴーぴー泣きながら出掛けていたぜ」
「ほんとに?」
 目をきらきらさせて、ソファに上がってくる。
「なぁ、本当にやりたいのか、体操」
「うん。でも知らない子がいっぱいいるから、こわいんだ」
「わかるわかる」
 俺は小さな頭をポンポンと叩いた。玄関の姉は険しい顔でスマホをいじっている。
「おじちゃん、これなに?」
 ハッと気づくと、いつのまにか俺の背中を覗き込んでいた。しまった、と思ったが、もう遅い。
「なんで背中に道路があるの?」
「聞きたいのはこっちのほうだよ……」
 透き通った黒目がゆっくり動く。背中の点線を追っているのがわかった。腰から背中へ、そして首元へ。
 どうやって誤魔化そうかと考えていると――急に甥っ子がスクッと立ち上がった。小さな両足に力を込めて、躊躇いなく俺の尻を踏みつける。
「おい?」
 五歳とは言え、それなりに体重はある。だが、なぜか重さも痛みも感じなかった。
 彼は俺の上に姿勢を正して立つと、スッと深く息を吸い込んだ。
「ちょっと、なにしてるの。遊んでないで早く――」
 姉の声が途切れた瞬間、彼は俺の背中の上を走り出した。
 尻から腰、腰から背中、そして肩で強く踏み切った。
 驚いて顔を上げると、そこには両手を広げて高く飛び上がった彼の背中があった。
 白いTシャツの裾がスローモーションのように翻っている。
「……テイクオフ」
 俺の唇から自然と漏れた。
 甥っ子はそのままの勢いで姉の横をすり抜けると、玄関から外へと駆け出した。
 一瞬の後、ハッと我に返った姉が「靴、靴!」と叫びながら、スニーカーを掴んで追いかけて行く。それを寝転がった姿勢で俺は呆然と眺めた。
 ――なにが起きた?
 手を回して、そっと背中に触れてみる。
 甥っ子はまるで滑走路から飛び上がるジェット機のようだった。
 まさか。そんなことがあるはずない。
 偶然、そう見えただけだ。自分に言い聞かせる。だが、偶然ではないことはすぐに判明した。
 数日後――今度は姉がテイクオフしたのだ。

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