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今日は大人になる日だから…大人になるって?(「成熟スイッチ」林真理子 著を読んで①)


成人の日。新成人の皆様、ご成人おめでとうございます。

数年前の同じ日、青空の下、想像以上に強い風の吹く市民ホールでは、
膝の下まである袂と、綺麗に整えた前髪を飛ばされないように押さえながら…。
久しぶりの面々で写真を撮り、輪を囲んで話しては、インスタグラムで殆ど確認済みの卒業後を確認し合って、へ〜!知ってたけどね(笑)と苦笑いしていた、キラキラ振袖姿の私もいました。

リビングでなんとなく点いているテレビをまともに見ることもなく、暖房にあたってパソコンを叩いていると、外では風が吹いているのが嘘のようです。
数年前に当たった風は強すぎて、写真に映る私も同級生も、せっかくの綺麗な前髪は跡形もなくなっていますが、その風さえ冷たくて心地よかったような気さえしてきます。思い出になっていく、とは気持ちが良いものです。
あるいは、2023年の今日という日が、私の成人の日の記憶を爽快なものに改ざんしてしまうほど心地のいい日なのでしょうか。
本当にいい天気で、成人の日にぴったりの空ですね。

Twitterやネットニュースには、成人式のニュースや、新成人の方々に向けたメッセージがたくさん溢れています。
大人になる日、とはいえ、世の中の20歳が突然音を立てて大人びて、明日からスーツを着て四角いバッグを持ち始めるわけではありませんし、人工的に20歳を区切りとしているからこその今日「成人の日」。だから20歳なんかまだまだみんなお子ちゃまなんだというのも違くて、確かに私たちみんな今日を「大人になる日」と思っている。大人になる日がある一日に決まっているって面白い。
ふと、「大人になる」ということを考えはじめると止まりませんでした。

今日成人の日はそんな風に、大人になるってどういうことなんだろ〜、と、多くの人たちが考えを巡らせる日なのではないでしょうか。体が大きくなったり、我慢ができるようになったり、知識や教養が増えたり、年下の子には親切にできて、余裕があって・・・など、誰にも大人になることのイメージがあるはずです。そして、脳内の理想の「大人」に私は近づけているのかな、なんて考えます。

今日そんなことを考え始めて、書こうと思ったことにはきっかけがあったんです。たまたま、今日という日に林真理子さんの「成熟スイッチ」を読み始めたことでした。
成熟することとはどんなことなのか語られている本を「成人の日」に読むことができて、偶然にも粋なことしちゃっているな自分は、と、ちょっとだけ感心してしまいました。

林真理子さんは冒頭で、林さん自身の周りにいる素敵な大人たちを見て、自分よりもずっと「成熟している」大人たちの「成熟」を感じたエピソードを記しています。
すべてがどうでも良くなる、こだわりがなくなること。また、どんなことも幅広く許せるようになること、そんな大人が列挙されていました。

人間は成熟しきると、大抵のことはどうでもよくなってくる。寂聴先生のように、いろんな人を受け入れ、いろんなことを許してあげるということは成熟の証だと思います。

「成熟スイッチ」ー林真理子 講談社現代新書,2022

この時、林さん自身は「世間的にも札付き者のようになっていました」というとある女優さんのことを、瀬戸内寂聴さんは自身のパーティに「よく来てくれたね」といって仏のように暖かく迎えたと言います。そんな寂聴さんの姿を、”成熟の証”として挙げています。

なるほど・・・、受け容れることができる人としての大きさ、それが大人の「大」か、と思いました。
そして逆に、若いということや青いということって、「許せない」からこそのもののような気がしてきました。

最近、人の「許せない」を目にすることが増えました。
炎上。謝罪。昨日は、ちびまる子ちゃんのアニメが酷かった、なぜ放送できたんだと多くの人が口にしているのをみました。
確かに、悩んでいる人や苦しんでいる人がいる問題を軽視してはいけませんし、それをさらに助長するようなことはしてはいけないのだと思います。ですがこれこそ、人の「許せない」の結晶だなと思います。
他にもいろんな「センシティブ」な問題が今の世の中には溢れているなと思います。だけどそれは、人の許せないが新しい許せないを生んで、許せないことが多数派になった結果ともいえるのではないでしょうか。
つまりは、最初さほど何か感じなかった人も、誰かの「許せない!」という言葉を見て、確かに許せないや・・・私も許せない!と同調する人がいて、許せない陣営が増殖していっているということがあるような気がしています。

そうやって考えていると、「許せない!」は忌まわしいもののような、負のエネルギーを産み出すもののような気がして、そうやって一つの思いにこだわるのってなんだか必死だなというか、すごく嫌気がさしてきてしまっていました。
でもひょっとして、「若いから」なのかも?と思ったら、元気がでてきたんです。今はまだ、こんなふうに必死に自分の思うことやこだわりや、「許せない」を大切に守ってもいいのかも。って。

さて、少し話が逸れてしまいましたが、私が「若いことは許せないこと説」で真っ先に思い出したのは、炎上のことではなくて、昨年のサッカーW杯の日本代表VSクロアチア代表の試合でした。これも、「若いから許せない」なら、許せないも悪くないのかもと元気をもらえた一つのエピソードです。
ワールドカップをちゃんと見るのは初めてでしたが、完全にある人のファンになり深夜にリアルタイムでテレビ観戦していました。他でもない、三苫薫選手です。超・カッコよかったですよね。俊足、長い足、圧倒的なボール運びと決定力。日本中の女子達が三苫薫選手、そして鷺沼兄弟の虜になっていました。自分もミーハーだなと少し赤面する思いでしたが、サッカー日本代表ポテトチップスは30個も書いました。スポーツ観戦を熱狂的に楽しめること自体にもワクワクしていました。

PK戦で幕を閉じたクロアチア戦、そして今試合の、日本の挑戦。三苫選手の最後の表情や、行動が忘れられませんでした。
勝利を左右する一手を惜しくも決められなかった彼は、口を押さえて走り去り、目には涙を浮かべているようにも見えました。インタビューでは「全部が足りなかったと思います」と語り、帰国時は多くのサポーターに迎え入れられるチームの中には姿を表さず、1人で帰国。その後報道番組などメディアへの露出もありませんでした。こんなにも多くの人から注目され、スポットライトの当たっていた三苫選手だけに、テレビにはたくさん出演するのではと思っていたので、意外でした。でもその後、「期待されていたような結果を出せなかったのに、応援してくれていた人に顔向けできない」みたいに思っているんじゃないかな・・・、なんて想像しました。

「日本代表を引っ張って行かなくてはならない」という言葉にあらわれる強い責任感から、敗退してしまった時、彼から感じる気持ちには「自分が許せない」という言葉がぴったり当てはまるような気がしました。誰が許してくれようとも、励ましてくれようとも、自分の力が及ばなかったことを許せない。そんな気持ちを、彼の悔しいまなざしから感じました。
そして早くも、所属チームであるイングランド・ブライトンでの活躍をニュースで目にするようになりました。まさに精進を続けられているんですね。4年後に向かって、もう彼は歩むどころか、走り始めているのかもしれません・・・あの速い足で。・・・三苫選手にとって「許せない」は、次へ次へと歩みを進める原動力のようになっているような気がします。

そんなふうに「許せない」とか、または「こだわり」のようなものって、私含め、若い頃にこそ持っている、失うことができないまばゆいしこりなのだなと思います。だからこそ推進力があって、許せないことには声をあげたりする。若い人は元気、に含まれる成分として「許せない」は欠かせないものな気がします。

なので私としては、前にも述べた通り自分の外せないこだわりのようなものがあると少し厄介で、許せないものが少ない方が呼吸のしやすい思いだったのですが、若き今こそこだわりみたいなもの、自分の許せないものを、携えながら生きるのも今できることのような気がしてきます。


三日月








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