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クレッセントハウス完成パーティーの冊子より(1968年)



開館にあたって

 1947年の秋、長かった戦地の生活つから帰ってきた私は古美術商になってみようと「三日月」を商号として出発しました。
 翌年戦災で砂漠の様になって居た芝公園に些かな店舗を建築して西洋古美術の専門店を開きましたが、10年経った1957年の秋にはその建物を改築して年来望んでいた仏蘭西洋料理「レストラン・クレッセント 」を開いて古美術商は京橋宝町に移しました。
 
このことは常々「美しいもの」と「美味しいもの」との深い関係について考えていた私の大きな実験でもありました。
 そして多少の紆余曲折はあったにせよ私の仕事に共感してくださった皆様方のご声援によって双方の事業共概ね順調に成長して来ました。1967年はわたしにとって第二回目の区切りでした。離れ離れになっている営業所を出来るだけ統一して、より充実した仕事が出来るような、夢想の店舗を新築し、クレッセント ・ハウスと命名して私なりの作品を作ってみたいという20年らいの執念を実行することを決意しました。

この工事は全ての点で幾多の困難を伴う事は事前に十分解っていたのですが、いざ着工してみると如何に予測を超えた難点が所々に介在していたかを深刻に経験させられました。施主、設計士、施工者共々未知の世界を探究しなければなりませんでしたし、殆ど全ての材料や部品は別注しなければならず、しかもその製作者の方々に私たちの意図を十分に飲み込んでもらわなければなりませんでした。。その他いうに言えない数々の苦渋がこの建物のために注ぎ込まれました。

 工事が七分通り進行した頃、初期に計画していた二つの大きな部分(英国中世風の部屋とアティック)を将来工事として残さなければ工期も賃金も間に合わぬことが明らかになって、涙をのんで未完成部分を残したまま開館することに決心しましたが、振り返って今考えてみると、それで良かったとも思われます。
 なぜなら、私たち自身もお客様方も又数ヶ月後、数年後に新しい作品を楽しんでいただくことが出来ると思うからです。

私はこの建物の中で数年来苦労を共にしてきた従業員の人々と、楽しく懸命に働く事によって顧客の皆様方に幾分でも満足kして頂ける事を無上の楽しみと考えますので、建築費を短時日に消却しようなどという考えは毛頭持っておりません。
 設計者の平島氏、施工の白石建設、そして私の手足となって建設に努力してくれた三日月の諸君に深い敬意と感謝の念を捧げ大正生まれの私はこんな事を思います。

此処を訪れる人々が「古き良き時代」に皆んなが持って居たあの心のゆとりをひと時でも味わってくださる様に、と。


石黒孝次郎

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完成まで

 前の木造時代のクレッセントを手がけたのはもう一昔以上前になるが、今もその隅々、木材の節まで、はっきりと記憶している。その後、時々改築の話が出てはその儘になった。
 一昨年初夏、私が中近東へ旅立つ直前、今度は必ず、君の帰りを待って具体的な計画にはいりたいと思う、と言われた時には、石黒さんの心の中の「改築の必然」が痛いように僕にわかるように思えた。帰日の上は何を擱いてもクレッセントをやらねばならぬ、と、アナトリアの砂漠の砂を踏みながらも、金角湾の落日を眺めながらも、クレッセント・ハウスについて想を練り続けた。

「僕もレストラン業に10年の経験を積み、君も建築に10年のキャリアを加えた。壊すのは惜しいと言われても、二人で経験を生かして組めば、絶対にいいものになる。」と石黒さんは言われるのであった。
 最初のスケッチを前にして打ち合わせを行ったのは、よく晴れた秋の一日であった。雨来21ヶ月、「三日月」のお蔭で各室それぞれに適わしい照明器具の類が揃い、現場段階に入ってからも同じ「三日月」のグループの助力を受けた。

 夕日が麻布の丘の彼方へ傾くとき、ファサードは落日に映えて最も美しい。その広がりの、頃あいの軟らかさと深く澄んだ色合いを求めて焼かせるのに苦労した煉瓦、昔懐かしいストレート屋根の棟飾りに、これ以上言葉を費やす必要があろうか。料理の如く建築もまた、それ自身をして語らしめよ。

平島二郎


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インテリアの立場から

 クレッセント・ハウスの建築にあたりましては、当社インテリア部門も全力を上げて活躍致しました。
 施主、石黒社長は当ハウスに関して多年にわたって建築様式、その他あらゆる面で構想を練ってこられました。その主旨と希望の数々を私共は勿論、建築家、室内装飾家が一体にチームワークを組んでこそ建築の完全設計が成り立つとの趣旨のもとに、竣工迄一生懸命に石組から胃すの1個に至るまでお互いに話し合いの場を経て最善の努力を致しました。
 それに加えて白石建設の現場総主任・鈴木氏の、少しでもよく造ろうとの熱意と下記の多数の関係会社に大しての統制力が如何に貢献したかわかりません。

 三日月の設計部門も、この仕事については、各人の担当部分に、それぞれの個性的なデザインを発揮し得たことは、大変によい勉強になったと思います。そして室内装飾家として現寸図を引くだけでなく本当の仕事が出来たことで一同喜んでおります。
 不調和、不自然なところも多々あることと思いますが、皆様のご評判とご指導を仰ぐとともに、この貴重な体験を基に、三日月のインテリア部門として今後さらに発展的努力をかさねるつもりで御座います。

秋山正

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クレッセントハウス開館時の完成パーティー冊子、先日参加させていただいた「廣度院練塀及び境内地とクレッセントハウスの景観を守る会」勉強会資料より。

平島二郎先生の文章、祖父・孝次郎の「(いつかは壊される事を前提に)壊すのは惜しいと言われても、二人の経験を生かして組めば、絶対に良いものになる」という思いが綴られている点は、いかにも祖父らしいなと思いました。

日本では、どんなにこだわりを持って建物を建てたとしても、自分がそこにいなくなった後、様々な理由から、うまく次の代に継いでもらう事ができなければ、物納なり売却なりの際必ず更地にして明け渡すのが原則。でもそれだと、建築物に想像力や独創性等の力を注ぎにくい、という現状が昔からあります。それでも祖父は、今、一緒にいいものが作りたい。それは、「此処を訪れる人々が「古き良き時代」に皆んながもっていたあの心のゆとりをひと時でも味わってくださるように」との、レリーフの言葉へと繋がり、自分の夢であると同時に、此処に関わる全ての人の夢と理想を叶えたい、という強い願いがあり、良いもの、美しいものに対しての強い意思がありました。

そうした思いが込められた建築物は、この先どれほど生まれてくるだろう。個人の思い入れを越えたところで思うばかり。

・・・等々、クレッセントは2月から解体されて、もうすでに半分くらい取り壊されているものと想像していただけに、何か、突き動かされるものが改めて湧き上がってくる感じでした。

築50年を超えた建築物は、設計・建築としての価値を含め文化財にもなり得るもので、クレッセントも、どうにか文化財として残していけないか、という多方面からの希望の多い建築物でもあります。
「建物の価値は月日を経ていくたびにゼロになる」という、街並み美しいヨーロッパとは真逆の日本の不動産業界の常識を覆すのはなかなか難しいことですが、本件の解体をどうやって止める事ができるのか、という件についての知恵を今必要としています。

クレッセントを知っている方も、知らない方も、もし、美しい風景、歴史的建物が残されていくことに少しでも賛同いただける方がいらっしゃいましたら、どうか、お知恵を頂けますと嬉しいです!


info@tantan.Tokyo

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お隣の廣度院さんの練塀は、登録有形文化財に指定されており、その練塀は祖父の代ではのこしつつ練塀とともに建物が建設されたいきさつがありました。古いものを大切に思う祖父ならではの、もとある風景をそのまま生かすというあり方。今の時代にも、そんなあり方が通用するような場所、心が残っていると良いなあと思います。


クレッセントハウスは、外観だけでも見る価値のある建物です。取り壊される前に、是非…! 〒105-0011 東京都港区芝公園1-8-20



 


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