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私と祖父とクレッセントハウス

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「古き良き時代」の面影を、現代までそのままに残したクレッセントハウス。2020年、ついにその歴史が幕を閉じます。様々な想いを胸に、作家として大きな影響を受けたこの場所についてを、… もっと読む
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#古代美術品

クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(前)

下記は、昭和50年に発行された「小さな蕾」2月号より引用しています。 石黒孝次郎が骨董品にかけた想いはそのまま、レストランクレッセント のおもてなしの空間につうじていることがわかります。置物、食器、人、か会話・・・全てが調和されてはじめて、ほんとうのおもてなしの空間が生まれる。そんな空間で生まれた人間関係は、その先もきっとかけがえのないものになる。 このnoteでは、レストランクレッセント の歴史を、古美術商としての側面と、レストランとしての側面とを両方まとめています。

港区議会にて、クレッセントのことが紹介されました。

10月6日の港区議会決算委員会の総括質問の中で、石渡ゆきこ先生が、クレッセントについてと、石黒孝次郎夫妻のことまで触れてくださいました。 42;00辺りから、地域の文化的風景を記憶に残すという内容で、104;00辺りから、それに対して荒井雅昭港区長が触れられています。 https://gikai2.city.minato.tokyo.jp/g07_Video_View.asp?SrchID=2527 どんどん失われていく文化的風景、風情のある風景を、形はなくなっても、記

古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <後編>

前編 中編 次に、このケースの中が今のペルセポリスなどにつながった時代で、こっちの半分にあるのがスキタイ芸術と言って、イランの北部から南ロシア、中国の北の方までにかけたいわゆる騎馬民族のものです。 これは西北イランのアゼルバイジャンから、この銅製打ち出しの動物が40個ばかり飾りに打ち付けられた大きな棺が出てきて、その棺の中に骨と一緒にこの首飾りが出土したのです。これは350瓦ある純金です。 Q じゃあ、王侯貴族のお棺ですね。 石黒 おそらくそうですね。それからあの下

古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <中編>

(前編) 後編 Q これは中国の古いものですね。 石黒 そうです。中国の隋だと思います。こういうメダリオン、貼り付け模様、これは完全にイランあたりの銅器の打ち出し模様を陶器で真似したものなんです。ですから、唐三彩なんかのこういう貼り付けもようといったものも、こういったものから発展しているし、そういうような意味で面白いですね。イランと中国との交流という意味でこのコレクションに入っているわけです。 ここにあるのは、ガラスのビーズなんですけれども、古代ガラスで、上の段が紀元

平山郁夫氏による、「石黒孝次郎氏の思い出」

クレッセントハウスは、古美術商として誕生し、後にフランス料理店になりました。レストラン時代からをご存知の方で、美術商としての側面をご存知の方は少なくなってしまいましたが、クレッセントハウスの本当の顔は、古美術品で満ち溢れ、各方面の専門家の先生方が、クレッセントで食事を取りながら、英国風の建物の中、アンティークで統一されたインテリアに包まれながら、祖父と古く美しきものについて談笑している、そんな風景だったと思います。 いつしか、古美術商あってのレストラン、レストランあっての古

最愛の妻・豊子に捧げたコレクション 〜Mr. & Mrs ISHIGURO Collection 〜 古美術商として始まったクレッセントハウス

母がまとめた記事をこちらに記載します。 こちらは、祖父が寄付を希望した中近東文化センターより出版されている「古く美しきもの」から、館の責任者の方に承諾を得て引用させていただいています。 レストランクレッセントは、もとは、祖父が生涯情熱をかけた古美術商としてのギャラリーでスタート致しました。クレッセントハウスは、レストラン、ギャラリー、チャペル・・・全ての場が一つとなり融合しあって、初めて輝きをもつ館でした。 祖父にとって、クレッセントハウス設立を見ずして若くに亡くな