見出し画像

人びとの営みを素直に受け止め、濃やかに描き出していくこと。

とっても独り言なのですが、デザインは人びとの営みを素直に受け止め、濃やかに描き出していくことが大切だよね、と思いました。(唐突ですみません…。)

いろいろな人のお話を聞いているうちに、ふと考えてしまっていることを、一度言葉にしてみようと思って久しぶりにnoteに向かっています。


私たちの営みはとっても複雑なもので、シンプルに伝えようとすればするほど、営みの中にある私たちが大切にしていることが削がれていってしまうなぁ…と思うことが最近増えました。

例えば、毎日のシャワー後の冷たい麦茶の喉越しとか、暑い日に空を見上げる首と目の痛みとか、失敗した日の帰り道に感じる肩の重みとか、そういったものというのが、私たちの暮らしを表現することに繋がるのだろうと…。(曖昧かもしれないけど…。)


素直に受け止める、というのは、提案やビジネスに直結しないから無視していいよね、をしないでほしい、ということです。よく科学で言っている「ただし摩擦はゼロとする」をしたくない、してほしくない、ということでしょうか。私たちの営みは摩擦のようにゼロに還せるもの、ではないはずなのです。

受け止めたことを全て含めて、食べて、栄養にして、濃やか=情感とビジュアライズを緻密に描き出そうとすることが、これからのデザインにとって大切で、原点なのかなと思っています。


濃やかに描き出す、といっても、絵のタッチを細かくして欲しいとか、描画を繊細にして欲しいとか、書き出す物量を多くして欲しいとかではないわけでして…。

いつもと違う視点で、いつもは描かないようなことを、いつもでは見せないようなものを、たくさん描いて、見返して欲しいな、と思うわけです。上に書いたような、冷たい麦茶の喉越し、みたいなものをデザイン提案の中に描いちゃえ!と思って欲しいわけです。


何気ないことかもしれないし、それを描くことで明確な何かが生まれるわけではないかもしれないです。でも、そうしたことを描いているうちに、自分でも結び付けなかった"もの"や"こと"同士を結びつけてしまえる、そうした気がするのです。

もう一つ。何気ないことから、人びとは生活のワンシーンを想像できるはずなのではないかと…。おいしいものを思い出すときって、香りとか、湯気とか、箸で持ち上げた重さとかがあると、記憶に奥行きが生まれると思うのです。これって、何気ないことかもしれないですが、これこそが、生活の想像のきっかけであり、大切にしたいことかな、と思うのです。(それが無いと、生活の偽造になるかもしれない…。)


でもこんな私たちに、社会実装のイメージを描いてください、と言われた時に、どんなものを描き出せば良いのでしょうか。(話題の急旋回…。)

一つ、大切なものは「そのイメージのなかに私はどこにいるんだろう」ということを問い続け、描き出すことなんだろうと思います。「こんなものがあります、良いでしょう?」ではなくて、「こんなものがあって、私はこんなことが楽しくって、つくってみたいんです、良いでしょう?」の方が、よほど世界観に厚みや深みがある気がします。肝心なのは、私を外在化させないことです。


私はこうしたことを考えながら、いろいろなデザインに向き合い、自分をデザインの中に存在させながらかたちにすることを、ずっと頑張ってきたのだなぁ…。と思いました。

でも、このデザインに向き合う姿勢というのが、社会のなかでデザインしていくことを推し進められていたのかもしれないと考えると同時に、社会実践のデザインの芯になる部分なのかもしれない、と考えました。言葉にしてみるとわかることって、多いですね…。​

最後までお読みいただき、ありがとうございます。 皆さんから頂く「スキ」とか、コメントとかがとてもうれしいです。 なんだかもう少し頑張って生きることができそうです。 いただいたサポートは、毎日わたしが生きやすい世界になるために使います。 これからも、どうぞよろしくおねがいします。