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書けん日記:6 饗宴の牛肉

ある秋の日の夜半――
T氏「つづきは?」
不肖「はい? すみませんすみません、先週のテキストは、いまちょうど」
T氏「まだ出来とらんかったんかい。それもだが、前回の続き。はよう」
不肖「はい? 続きと申しましても……」
T氏「タイトルが調味料で牛を殺しましたとなれば。次は食レポやろがい」
不肖「ええええ ゲームの牛を使って食レポを? そんなこと……できらぁ!!」

最近、安請け合いからの苦悶がくせになっている。こういうのはよくない。
あのさぁ。ゲーム中の牛を撃ち殺して、その肉で食レポとかさあ。
エロゲーやって、その体験だけでキャバクラのホステスさんに「女性っていうのはだね……」と謎のしたり顔で女性論や口説きのテクニックを語るようなものであろう。どうしてあのときの私は
できらぁ!! などと口走ってしまったのか……。
だが――
為さねばならぬ。書けん有り様でも、日記は書かねばならない。書かれねばならぬ。

牛。
人類の歴史、文明の一角を支えてきてくれた、偉大な動物。
もし仮に、人類が数十万年の歴史の中で――もし、牛と出会わなかったら。人類史は、今のものとはだいぶ違う形になっていたのではないかと思う。
その、牛。
三河の百姓に生まれた私は、幼い頃から牛を見て育ち、牛と一緒だった。
農家だった私の家には、離れた農機具小屋に牛舎が併設されており、そこで父がずっと、牛を飼っていた。
そんな環境のせいか――
私の家では、物心ついた頃から東京に出るまで。牛肉というものが食卓に上ったことが、全く無かったように記憶している。それは、牛を慈しんで世話していた父親が、牛肉を食べるのを嫌がったせいか……もしくは、私の家の家計が厳しかったせいか。
そのため、私が牛肉の味について……なにか思い出せる、こうして書けるのは学生になってからの記憶。最初の牛肉の味は、忘れもしない。

初めて食べた牛肉の味、それは牛丼の味だった。
あれは私が中学生の頃だったか。物心付いたころから、マンガとアニメと読書で脳に火傷をして、もうまっとうな人生は歩めない生き様が決定していた私は、中学生の頃には立派な「おたく」。
休みの日には、なけなしの小遣いをポケットに。オンボロ自転車を朝から漕いで三河から名古屋の専門店までアニメの本やらコミックやらを買いに出ていた。そんな私が、ある日、おたく道では先達である友人と一緒に名古屋に行ったとき。
「今日は牛丼でも食っていこまい」 と。その友人が私を牛丼屋に誘ってくれた。
当時は牛丼一杯280円とかだっただろうか。
中学生の私にはけっこうな高額、なにか外食するくらいなら、そのお金でもう一冊本を買いたいのが当時の私だったが……その日は、友人が私に牛丼を奢ってくれたのだと思う。
そして。牛丼屋で、人生初の牛丼。生まれて初めての牛肉。を私は食べて。
――あのときの衝撃、歓喜、感動は今でもよく覚えている。
初めて食べた、その肉のうま味。甘み。濃厚な味付けと、生姜と七味のハーモニー。それが銀シャリのごはんと相まって。柔らかな牛肉を、そのタレが染みたごはんを。アウンアウンと箸で口にかっこみ、噛んでいるのももどかしいほどに。それをグイグイと食道に嚥下してゆく……快感、悦楽。
「世の中にこんなに美味いものがあったのか!!」 と。
当時、まだ14歳ほどの悪童の私は、目の前が、牛丼屋の店内が。そして店から外に出たその世界がキラキラと輝いていたのを、いまでもよく覚えている。
いやあ、うまかった。あのときの、初めての牛丼。

それから、何年も。十年、数十年と経ても。
あれから、東京に出て這いずって働いて、なけなしの金で好きなものを食べるようになり。肉や酒の味を覚えたり、人様に奢ってもらったり食わせてもらったりで、美味のいろはを覚えたり……しても。
牛丼は、私の中で特別な食べ物。とっておきの「美味」であり続けた。きっとそれは、この先もそうだと思う。
私が物書きになって、ゲームの仕事であくせくしていたころから。
「今日はやるぞ!書き終わるまで終わらん」と仕事に切羽詰まったときは、たいてい牛丼をかっこんで気合を入れる。あの旨味と甘味の牛肉を、ごはんと一緒にかきこんで胃袋を満たすと。それが胃の腑から消えるまでは何でも出来るような気がして机に向かう。……ことが、若いころは出来ていた。
……はい。今は。この歳になってしまうと。
牛丼食べて気合を入れると、ガッツリ重くて胃の腑が私よりも先に疲れて。
いわゆる「ドカ食い気絶部」になって。
「…………寝てしまいました」 テッテレー朝日の効果音 と成り果てました……。

牛丼。ああ。魅惑の食べ物。素晴らしき牛肉の味。
私の青春、人生の半ばの道程の中で、私を支え続けてきてくれた美味。滋養。そして慰み、気合い。ご褒美。ときには苦渋や悲痛の盛られた丼。

高村光太郎の詩のひとつに『米久の晩餐』なる歌がありまして。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食欲とおしやべりとに今歓楽をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平気でまる裸にする群衆、
かくしていたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄りやわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を気にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

高村光太郎 現代史読本〈5〉 「米久の晩餐」より

私が引用するのも烏滸がましい、気恥ずかしい。そんな素晴らしい歌。
明治になって庶民に広まった牛鍋。その名店「米久」の情景と、そこにみつしりと詰まった客たちの飲食、歓談、怒声や失望、開放や自閉、そして――甘辛く煮られた牛肉の旨さと蒸気が、夏の夜空に向けて開け放たれた米久の窓からこちらに漂ってこんばかりの名文。ああ。一行、一節でいいからこんな名文を書いてみたい。
と、まあ。
私にとっての米久の晩餐は――深夜の、客が誰もいない牛丼屋でかきこむ牛丼。
あの牛肉の味。ああ。
いろんな牛丼の思い出。
またいろいろ思い出せたら、次の日記などで。また。

やばい。ゲームの牛肉とぜんぜん関係がねえ。
……とは思いつつ、私のゲーム業界時代を乗り越えさせてくれた牛肉の味ということで。


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