セミナー講師という1/3の曖昧で純情な感情

何を隠そう、私はイタリア人とのクウォーターなんです。

 
 
っていつかは言いたいなと夢見ている小松です。
そうしたらなぜ私のバストにイタリア人顔負けの芝的な何かが生い茂っているかを考えなくて済むのに。

 
 
 

先週末、家族でBOOKOFFという安価で夢と希望に出会える空間に行った。今週のドラゴンボール熱に冒される前で本当に良かったと思う。今週だったらきっと子どもそっちのけで大人買いスペースへ直行していたことだろう。
 
 
 

子どもの本をひとしきり選んだあと、突然の尿意に襲われ、さすがに齢(よわい)35にもなるおじさんが好きなジーンズの股ぐらを汚すわけにはいかないと、般若の形相かつ内股歩きという常人ならぬ風情で店員さんに頼み込み、職員用のトイレを借りる権利を勝ち得た。やっぱりそのような状況で効率的な歩行などできないものだと痛感した。アライメントなんてどうでも良いの。便座の前に立ち、僕のトランクスが降りる瞬間まで尿道括約筋が文字通り活躍してくれる方がよほど大事だ。
 
 
 
 

トイレを終え、間に合ったことの安堵感とトイレを発明したであろうトイレ博士(仮)に尊敬の念を抱きながら子どもたちのもとへ笑顔で向かった。

  
 
 
 
 
 

 

案の定、手は洗い忘れた。

  
 
 
 
 
 

その道中、1つの本のタイトルに目を奪われた。

「セミナー講師を依頼されたら読む本」的なタイトルの本だ。

激烈に目を奪われた割にちゃんとタイトルは覚えていない。

  
 
 

10年ほど前から勉強会やセミナーで講師的なことをしていた私。
 
 
 

こんな本があるなら誰か教えてくれたら良かったのに。
みんないけずだな。きっと僕になんて興味ないんだな。みんな僕にこんな本があることを教えるよりも明日の気温差が大きいから、インナーをヒートテックにするかワキ汗を気にして勝負のクールマックスにするか悩むほうが大事なんだな。
 
 
 
 

ぼ、ぼくはおにぎりが好きなんだな。

 
 

とか考えながらさっきの講師の本を手に取り、子どもたちのもとへと向かった。
 
  
 
 
 
  
 
 

もちろんトイレに戻り、手は洗うことはしていない。

  
 
 
 
 
 

そこで子どものもとに到着すると、子どもたちが笑顔でかけよってきた。やっぱりお前らお父さんが好きなんだな、と思ったその時。

  
 
 
 
 
 
 
 

違った。

  
 
 
 
 
 
 

息子(二人)の手にはレゴ的な何かが見えた。

  
 
 
 
 

へーーーー、じゃあこの笑顔は父への愛じゃなく、レゴを買って欲しいという希望と期待のコラボレーション的な奴ね、
 
 
 

とか思いながらとりあえず息子達を順番に抱え上げた。

  
 
 
 
 
 
 

もちろんトイレの後に手を洗っていないことは内緒だ。

  
 
 

 

レゴが欲しい、レゴ欲しい、レゴ欲しい欲しい欲しいとゴネにゴネる2体のレゴネルをどう退治したもんかと妻と相談したところ、妻がまさかの提案を放ってきた。

  
 
 
 
 
 
 
 

じゃあ誕生日の分ね、と。

 
  
 
 

現在は1月だ。
 
 
 
 
 

次男の誕生日は4月。まぁ3カ月前か…多分今日の出来事はもう何もなかったかのように誕生日前にはまたレゴネルが出現するだろうと思っていた。

  
 
 
 
 
 
 

待てよ、長男は9月だぞ。

息子どころか、記憶能力低下の私ですら今日の出来事を忘れ、8月には「誕生日プレゼントどうしよっかー?」と妻に笑顔で質問してしまうことだろう。8月頃に2度目の誕生日プレゼントを欲しがる長男に同調して、「何が欲しいんだ?ん?」って焦らしたあげく、もう買ったでしょ、って妻に長男と二人で怒られちゃう奴やん。
 
 
 

頑張れオレ。とりあえず手帳にメモっとけ。多分メモったことどころか、手帳の所在すら分からなくなり、しまいには役目を果たさないことが分かっているにも関わらず、何か飽きたから、と遊び人的な思考回路で新しい手帳に買い換えているだろうけど。ドラえもんがいたら7ヶ月後の僕にタイムマシンでそっと耳打ちしてあげたい。それよりもタイムマシンがあるのなら過去に戻ってなかったことにしたいことが山ほどある。助けて、ドラえもん。

  
 
 
 
 

 

話を戻すが、講師の本を読んだ。なんて役に立つのだろう。なぜ10年前にこの本と出会ってなかったのだろう。ここに書いてあることが全部できたらスーパー講師だ。でもそれをやってのける人がいないからスーパー講師はスーパーという冠をかぶることが許されるのだ。

 
 
 
 
 
 

ただ、私は「講師」と呼ばれるのには抵抗がある。何か「講師」って凄そうなヤツ、それでいて崇高でエレガンスな響きを備えているからだ。

僕は凄くない。それは重々承知している。

この記事を読んで凄いと感じる人はまずいないと思うが、僕はなぜか講師として招かれる機会を多く頂いている。

最近の記事を読まれ、今後予定されている講師依頼が棄却されたら今後の生き様を考えようと思う。

  
 
 

 

講師なんて、誰にでもできる。

「オレ、今日から講師」と言えばできる。法律には触れないはずだ。

 
 

でも自分で「オレ、講師」と言ったところで参加者がいなければそれはエアー講師だ。エアー講師にも憧れる方であればそれでも良い。今日からあなたはエアー講師だ。講師という崇高でエレガンスな響きに酔えば良い。

 
 
 
 
 

そう、講師が講師たるためには参加者の存在が不可欠だ。

 
  
 
 
 

そうだった。

講師という響きが苦手だった。

「講師」という名称の代わりに
 

「おはなしおじさん」「トーキングダンディ」「おはなし大好き髭まみれ」「思いついたことを自由に話す中年」「参加者の前で頭をフル回転してデモをしながらお話をする中年」
 

と命名するとしよう。
 

  
 
 
 
 

参加者の存在があって初めて、「参加者の前で頭をフル回転してデモをしながらお話をする中年」の役割が生まれることになる。

 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

やはりめんどくさいので講師としよう。

 
  
 
 

参加者の存在があって初めて、講師の役割が生まれることになる。そうだ。そうなんだ。講師は誰かが話を聞きたい、そしてその人の話す機会があれば実際に参加を申し込む人がいてこそ発生する生き物なのだ。
 
 

私はありがたくも、そのような生き物のジャンルにカテゴライズしてくれる方々がいるから、講師という機会が頂けている。

  
 
 

 

別に私はもともと講師をやりたくてやっているわけではない。むしろ人前で話すのは苦手な方だ。酒の力を借りたくなるし、恥骨結合付近にある僕のミスチルと下着の間に超吸水の何かを挟みたくもなる。

 
 
それを克服しようと10年前に現在代表講師を務めるセミナー団体「Bridge」の前身となる組織を立ち上げた。当時はまだ数える程しかセミナーをしている所はなかった。初めは専門学校の同級生で始めた勉強会が数年経ち、その同級生の後輩、友人、そのまた後輩とどんどん膨れ上がった。多くの人の前で話し、デモをする機会に恵まれた。ただ運が良かっただけだ。
 
 
 
 

そして私には人に誇れるような実績も実力もない。良い大学を卒業しているどころか、何となく入った大学を中退してから理学療法士の専門学校に入っている。

ただこうして10年間、やってきて思うのは「きっと誰でも他にはないもの(講師になるための素質)」は持っているということだ。

でもそれは自分では気づけないことも多い。誰かに求められて初めて「自分は他人からこうゆうことを求められているのか」と気づく。自分が強みだと思い込んでいる所と他人が私に求めている他の人にはあまりない部分(本来の強み)は大きく乖離している。
 
 
 
 
 
 
 

私がいくらおいしいカレーの作り方のセミナーをしたところで、せいぜい冷やかしの友人たちか、私のことを全く知らず本当においしいカレーが作れるかどうかを知らないままに、心からおいしいカレーを作りたいと焦っている方が申し込むくらいだ。
 
 
 
 
 

 

てかまずおいしいカレーを作りたい人はこのブログに出会わない。クックパッド見る。それかインドに行ってる。
 
 
 
 
 
 
 

私がインド人顔負けのカレーが作れることが私自身が思う強みだとしても、この記事を読まれる多くのリハビリに関わる方々には全く興味がないはずだ。

外からどう見られているか?何を求められているのか?そこが分かると、これを読まれている方々の講師としてのデビューも近いかもしれない。

  
 
 
 
 

でもまずはあなたが、どんな人間かを他人に出していかなければ、相手もあなたの強みを見つけることはない。オレってホントはすごいんだぜー、と心の中で叫んでいても誰も気づかない。以心伝心なんてカッコイイ幻想は取っ払って欲しい。
 
 
 
 

1/3の純情な感情の歌詞にも「どれだけ君を愛したら、この想い届くのだろう」とある。そう、一方的に愛したとしても、想いは届かないのだ。いつでも純情な感情は空回りなのだ。しかしそれが思春期の私達を大きく成長させるためのターニングポイントであり、自己と他者の価値観の違いに気づくためにも大切である。自分と他人の価値観の違いを理解することで、初めて気遣い、心遣いというものが生まれる。
 
 
 
 

そう考えると「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」という1993年に発表されたこの理論は、成立しないことになる(わがまま:自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手)。
 
 
 
 
 
自分の思い通りに自分勝手に振る舞っている時点で相手の価値観よりも自分の価値観を重視しているからだ。

  
 
 
 
 

 
そうだった以心伝心の話だった。
 
 
 
 
 

もう7,8年連れ添っている妻の怒りのスイッチすら全く見出だせないのに、赤の他人と以心伝心なんてあろうはずもない。
他人の心は読めない。これはもし誰かが私の心を読めたとするなら、私が思春期の頃にはすでにお縄を頂戴されているはずだ。それがどうだ。一度もそんなことはない。だから他人の心が読めるはずなんてない。
 
  
 
 
 

誰にでも講師となる素質はある。でも他人が気づきそこに価値を見出さなければチャンスはない。他人にアピールするということもできないままに、それを自分ではない何かのせいにしてはいけない。それは年末年始のおかげで明らかに豊満になったお腹と太ももではなく、きつくなったジャージが縮んだんじゃねーの?という洗濯によって縮むことなく素晴らしい伸長性を手にした科学の発展を否定することに等しい。

  
 
 
 
 
 
 

だからまずはアウトプットが大事だ、というお話。

 

 

 

終わり。