自分の内側にある負との付き合い方|【MikaGoRock 美加語録】
例えば自分はダメなんだろうと思う人や、霊性に関心がある人いうのは優しいくて良い人が多いので、何かがあって負の自分に出会ったりすると落ち込んだりする。
~うん、私も良く落ち込んだ。
良い人でありたいがゆえに、こうありたいという高い理想像があって、そうではない自分に自信が持てなかったりする。そして基本的に人の善というものにフォーカスしているので、負に関しては知識が乏しい。
~そう、冷徹な洞察力というものがなかったなぁ。つまり表面だけを見て信じてしまう。
混乱は、その負は何かというのを知らないことにある。得体のしれないものと言うのは恐怖を呼び起こす。わからなければ原因もつかめない。かといって自分自身の負に真正面から挑むというのはガッツもいるしエネルギーも消耗する。
~無駄な実体験はお勧めしない。
しかし、人や自分自身を知るためには、良い悪いではなく、あらゆる側面を知っておく必要がある。知らないこと、見たくないことはバイアスがかかってしまうから、真実を見損ねてしまうからだ。
~バイアスは逆集中だから、反対にそれを持っている人が集まったりする。
そんな中、とてもよい処方箋がある。
世界文学を読むこと。
歴史に残っている文学と言うのは、やはり人間への超深い洞察力と、誰にでも還元できる普遍性がある。だからこそ世界の名著とよばれる。
そこには、絶対に人が他人に打ち明けたりしない、ましてや、人に見せたくない人間の側面が描かれている。心の奥底の思いであるとか、もやもやっとした得体のしれない嫌な気分を、これでもかと的確に説明してある。そういう人が誰でも持っていて、でも表には絶対に出さない部分を知ると、人間に対する洞察力が生まれる。
文豪が文豪たるゆえんであるのだろうなと思うのだけれど、特に世界の文豪というのはそれがもう桁違いに深いのだ。
世界文学を読んでいる人がどれくらいいるだろうか?
あなたはよんだことある?
たとえば、ザ・文豪のドストエフスキーの物語。(カラマーゾフの兄弟や罪と罰とか)
そこには今とはくらべものもならないほどの、貧困や無知、差別、偏見などの社会問題があり、ひとりひとりの倫理も驚くほどあやうい。ある意味自分の欲望に忠実なのだ。
そんななか、登場人物はこれでもかというほど自分の負をどんどん表現して、怒る、恨む、いじける、あざ笑う、卑怯、嫉妬、騙す、自己中心的、思いやりの無さ、冷酷、欺瞞などなどありとあらゆる負の部分を存分に生きる。
たとえば、自分が幸せな時。人は良い人でいる事は簡単。では、苦難や貧困に陥ったときのこと。果たしてあなたは自分の良い人をどれだけ保てるだろうか?その時こそ、私たちは本当の自分に出会ってしまう。それは良い人でいる時にはひたすら隠したかった自分。自分だとは認めたくないような自分なのだ。
不幸を恐れるのは、その状況自体ではなく、今迄見る必要もなかった自分の負の部分を露にされるという恐れなのだろうと思う。
小説の中では主人公が陥った苦難のとその感情の重さに、そして共感できしてまう自分に、読んでいる自分自身が苦しくなり途中で断念しそうになる。
様々な登場人物のとんでもなく邪悪な考え方でさえも、何かしらわかってしまう自分がもっている裏黒さに驚くのだ。これはつらい。
ところが最後まで読んでいくうちに、徹底的な不穏な登場人物が不意に見せる正直さや無償の愛や、精神性の高さが顕れる。暗闇で生きるからこそ発揮される資質。そしてもちろん、同時に矛盾や両極端な感情も描かれる。そして小説の結論は、それまでが混沌だったがゆえに崇高だ。(世界文学は最後の結論を読むことが大切)
そういった負の部分というのは、人間の生の本質的な部分であり、それゆえに物語が深みをもち、最後に人間が人間である所以みたいなものが納得できる。
人は両極を同時に持っている。
それは聖者であろうと、犯罪者であろうと、同じようにそのスケールをもっているということ。そして今、たまたま、そのスケールのどこかを人生で表現していて、今日と明日の座標でさえも、どっちに振れるのかもわからない。一寸先だって分からないのだ。
自分が両極を常に持っているという事を知らないと、何かがあって負の部分が出現すると、とたんにパニックになる。そして負を持つ自分を責めたり、消し去ろうとする。ところがそれは決してなくならない。なくなる時は死ぬ時だ。
自分が両極をもっていることを知っていれば、たまに闇が出てきても、苦しくはあるがパニックになることはない。そういう部分は人間として当たり前にある。そんなことが分ってくると、負に対する感覚が変化していく。耐性ができるともいう。
長く人生を生きていると誰だって色々な事がある。そんな中で深く傷ついたり悩んだり、自分が嫌になることっていっぱいあると思う。だからこそ、今読む小説が生きた物語になる。
人間の負の部分。それは否定するものではなく、克服するものでもなく
人間の中には必ずあるものだという事。
そしてそれは悲観的な事では全くなく、むしろ楽観的な事なのではないかと思う。
不幸の中に不幸でいたり
不幸の中に幸せでいたり
幸せの中に不幸でいたり
幸せの中に幸せでいたり
全ての出来事の中で
あらゆるバリエーションを創れるということだ。あなた自身が世界の文豪であるかのように。
一人の人が表現する負や悪の部分は、たまたまその時にそう表現してしまっただけであるという事。
悪というのは強さでもある。高貴さは脆弱さにもなりえる。
同じ人の中に、信じられないような高貴な心と悪の心が同時に存在する。
どちらを表現するかは、たまたまそうなってしまった、ということなのだ。
そしてそれをどう感じるかというのも、たまたまそうであるという事なのだ。
そのたまたま、というところが、人生を生きているという事なのだろうと思う。生きていれば様々な事が起こりうる。今の状況でさえも3か月前には想像だにしなかったことだろう。
そんな中で己を克服したような人には、普通には出来ないという事が皆わかっているがゆえに、物凄く称賛されたりするけれど、だからといってそうできなかった人というのは決して堕落しているからというわけではない。そしてその素晴らしい人と24時間いるわけではないので、本当にそうなのかどうかは本当のところわからない。どちらにしても、その時そうだったという事だ。
それがわかると自分自身との不思議な連帯感というものが生まれてくる。その連帯感が、自分自身を赦し認めはじめているということで、それはそのまま自分を愛することにつながっていく。
そして自分が自分を責めなくなると、負と言うものは存在できなくなる。正しい事と正しくないことを仕分ける人が消えるから。それを決めているのは、自分の頭の中にある。
その代わりにやってくるのは親友だ。
自分が自分の一番の親友になれるとき、何処に居ようと何をしようと、自分自身にくつろぐことができる。それは負があるからこそ、知ることが出来る境地何だろうと思う。
(Photo: ©MikaRin)
MikaRin Youtube 音楽チャンネル
寄付・投げ銭・サポートはとっても嬉しいです。大切に創作につかわせていただきます。ありがとうございます♡