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あれから2年

 ずっと近くに住んでいるのに、目黒川沿いをゆっくり桜を見ながら歩くということをしたのは三年前が初めてでした。それまでは桜の時期になると何故か広島でタスクが発生し、この時期あまり休日に東京でゆっくりする事が無かったような気がします。

 あの時、川沿いをゆっくり歩きながら3年後はどうしてるだろうと考えたものでした。昨年春にはすでにコロナの影響が出ていたため、桜を愛でることもなく緊急事態宣言発出後すぐに隠れるように広島に戻っていました。そして今年は、たまたま東京にいます。そして3年後は来年やってきます。

 息子の大学卒業が3年後だったこともあり、3年後は…とあれこれ考えながら歩いたのだけど。息子、留年です。やってくれる…。ちなみに今は社会人の娘も留年しました。仲良しか?自分が生きていくだけでも不安な状況の中、さらに色んな意味で不安定に生きる「子どもでない(成人した)子ども」という存在を抱えていることの難しさ。

 娘はバイトと大学(の友達と遊ぶの)が好きすぎて留年しました。就職はおよそ彼女の友人とは被らないアパレルに。まずはバイトから始め1年間は正社員にはしてもらえないと聞いていたのに、気付いたら正社員だったけど、それに気付いてないという天然。「そういえば新しい保険証もらった」とのこと。好きに自分の力で生きている娘は危なっかしいけど、頼もしくもあります。

 一方、聞けば息子は大学に行きたくない時期があったらしく、昨年コロナで計画倒れになったカナダ行きも、実はもう学校は中退するつもりだった…という軟弱。ひどく物事を考え込む性格だと本人はいうけれど、どこまでも人に優しく自分にも優しくな性格。今はもう心配事はないから大丈夫なのだそう。詳しくは聞いていません。心配するのが親の仕事だとわかっていても、割りに合わないなぁ…と思うことがよくあります。彼が前を向くために必要な怠慢だったのだと自分に言い聞かせ、ただ黙って心配するしかできません。

 散る様子を間近に予感させる満開の桜はどうも苦手です。間近の見えない状況に無闇に心配を重ねても散るものは散るし、散ることそのものは生命が循環していることの一部の動きだと思えば前向きにもなれそうなものだけど、あの「散る様」の潔さを予感するだけで辛い。満開の桜が散る様を予感する行為そのものが「ただ黙って心配する」自分の態度に重なります。

 桜が散ったら一気に他の植物が芽吹くよう、息子も希望を持ってとにかくちゃんと単位を取れるよう授業に臨んで欲しい、ですな。(突然、なんだか現実的ですが)コロナ禍は私の仕事にも影響が大きく、不安はつきませんが、できることをやるしかない今日この頃。

 あーあ、留年すんなや⤵︎

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