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『どうせ言っても伝わらない』

私が長年苦しんできたことのひとつに、

『自分の伝えたいことを伝えることは不可能だ』
というものがありました。

ここ最近、哲学を学ぶ中で
そこには2段階の意味があることが分かり
その気づきを書いてみました。


経験論的な絶望

まずは経験論的に感じた絶望について。

そう決めつけたのはもちろん突然ではなく
幼少期から蓄積してきた経験体験によって生じたものです。


いろんなことがありましたが
私のなかで一番衝撃的だったことは

小学生のころ、いつも私の話を「うんうん」と聞いてくれた母に
自分のつらい気持ちを吐露したときに
思ってもみない反応をされたときのことです。

今思うと、自分の表現の仕方が非常に分かりづらかったことに
大きな問題があったのですが
とにかく、私の気持ちをバッサリ拒絶されたように感じたのです。


当時、友人関係に悩み、
誰からも相手にされず、見捨てられたように感じていた私にとっては
「お母さんすら分かってくれないなんて」と
まるで自分の見方など誰もいないかのように感じました。

母を信頼していたからこそ深くショックを受けて
布団の中にしがみついて声を押し殺して泣くしかできなかったのです。


…と、これは経験論的な絶望のひとつなわけですが
でも、これよりももっと衝撃をうけたことがあります。


合理論的な絶望


それが、
自分の見ている世界を共有できたことは一度もないということ。


ハッキリ言って
自分のことが分かってもらえないなんて、当然だったのです。

なんとなく、分かり合ったような気がして
人との関係性を深めてきましたが
ある一定のところで踏み込めない壁のようなものを感じて
本当の理想の関係を築くことができていませんでした。

世界でたった一人でいいから
心から分かり合える人がいたらいいのに。

そんなことを思いながら過ごしていた私にとって
ものすごく衝撃的なことだったのですね。


どういうことかというと
そもそも私たち人間は、自分がみている世界しか認識することができず
その外に出ることもできず
本当の意味で相手の言っていることを分かることは不可能だということです。

"みんな同じ画面を見ているようで
まったくちがう認識画面を見ている。"

当然と言えば当然なのですが、
なかなか受け入れられずにいました。
「そうはいっても、分かり合えるんじゃないか?」

そんな希望を持ち続けていたのですが
スコンと絶望が腑に落ちた瞬間があったのです。

そうか、私だけじゃなくて
人類700万年間、ずーーーっと
本当に心から分かり合うこともできずにいたんだ。

だからいまだに戦争は終わらず
人と人は争いを続けて
鬱になったり自殺者が後を絶たないんだ。


生まれた瞬間からずっと自分のみている世界だけをみて
そこから自由になれず閉じこもったまま

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと
閉ざされた世界にいたんだ。


…ということを
哲学を通じて学ぶことができました。



正しい絶望


何が言いたいのかというと

『だから、しょうがないよね。諦めてそこそこ分かり合ったフリして生きていこうよ』

…ということを言いたいわけではなく。笑

正しく人間の現在地を把握して
正しく絶望する必要があるよね
、ということです。


今のあらゆる問題は
相手を分かっているつもりで決めつけてしまったり
自分の論理を押し付けてしまうことから始まっています。

本当はもっともっと自分の外側から観る必要があるし
でもそれがとにかく難しい。
だって、人間個人の観点を一度手放さなくてはいけないから。


そのことを、すべての人が向き合って
乗り越えていく必要があると確信しています。


私のつたない文章ではなかなか伝えられないのですが
絶望をしたところから整理していきたい
積極性のある思考のある人と
もっと語って学びあえたらいいなあと思っています。





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