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私は言葉を生み出していない

 私は物書きである。
 英語で言うとI am a writer.

 誰にそうしろと言われたでもなく、気が付いたら文章を書きたいと思っていて、いつの間にかこんな承認欲求渦巻くblogに手を染めていた。
 もちろん、書きたい!という気持ちが自然発生的に生まれてきたとしても、書き始めた時期はちゃんと覚えている。
 本当に纏まった文章を書き始めたのは高校生になってからで、その手の部活に入ったことを契機として書き始めた。
 中学の半ばに、親にもう使っていないPCを貸してくれと頼み、1つショートショートレベルの小説を1本書いたことがあるが、それは除外する。
 あまりにもお粗末なのでそれは纏まった文章とは言えないからだ。
(今となっては、あれ旧石器時代のPCなんだろうかと訝しむくらい、今使っているノーパソとは形状も何もかもが違うものだったと記憶している。)

 しかし残念高校生から書くことを覚えた私は、まるで傾いた地面の上をビー玉が転がっていくように、まがった方向へ誘導されていった。
 物書きとしての私、転落の始まりである。
 高校生になった私は、文章を書くことを自己表現のツールと考えていたのが敗因だ。
 高校生というのは、得てして尖る時期である。
 だから、立場を弁えず思想強めの評論という皮をかぶったお気持ち表明をしていたし、小説も作者の意図が介在しないものは自分の本棚から排斥していた。
 その時思っていた言い方をすると、読み手を楽しませるだけの娯楽小説(ラノベとか推理小説とか)を忌み嫌っていて、近代の文豪が書いた小説を丁重に扱っていた。
 今思い返せば、中学の時に散々東野圭吾読んどいて何言ってんだって話ではあるが、高校で出会った友人の気質に当てられたところもあるだろう。

 そこで、評論ばかり書いていたせいで、やたら堅苦しい言葉遣いが身に染みついてしまって、だれも私の文章を読んでくれなくなった。
 私だって漢字でぎちぎちのお堅い文章は、疲れるし読みたくない。
人が読みたくない文章を書くな、ということで今はnoteで沢山の人に読んでもらえる文章が書けるように練習しているのである。
 少しでも平易な文章が書けるようになるために。

 ここまでは、文字数稼ぎの自分語りであり、ここからが本題。

 まず、私は「創作」をする人間の一人である。
(創作という言葉は重く、それについて語ると一つ記事を書かないといけなくなるので、ここでは何か新しいものを生み出す字面上の意味として捉えてほしいということで鍵括弧をつけた)
 そして、「創作」をする時に一番大切なことは
 「自分が好きなものを創れているか」だと思っている。

 私は、自分の文章が好きだ。
 何度もこのblogに書いた文章も読み返してしまうくらい好きだ。
 推敲しているときにも読み返したはずなのに好きだ。
 自分が昔書いた評論文を読み直すたびに、その言い回しにうっとりするし、昔の私やるな、と感嘆する。
 決して自惚れている訳ではない、とは言っておく。
 自分よりも、面白い文章、美しい文章、軽快な文章、迫力のある文章を書く人は何度も見てきた。
 しかし、私は自分の文章が好きだし、誇りを持って書いている。
 上手いと思える文章に出会ったら、それを吸収してアウトプットし、できる限り自分のものにできるように努力しているつもりである。
 前々回の記事を踏まえてもらうと、より私の言いたいことが伝わるだろう。

まあ要するに
「自分が誇れないものを、自分の作品として他人に見せるのは違うよね」
ということが言いたいのである。

 そして、その上で言いたいことがある。
 今まで書いていたことは本題の前置きである。
 長くて申し訳ない。

 言いたいことは
私は自分が納得できる面白い文章を書いているつもりだが、それは「抽出」しているだけで「生み出す」ことはしていないのではないか?
ということである。

 確かに私は、自分の頭で考えて文章を書いているはずである。
 しかし、それは無数にある単語と助詞から構成される日本語から恣意的な組み合わせを選んでいるに他ならないのである。
 だから、私が書いている文章は、他の誰かも書くことが出来るはずである。
 私が言いたいのは、さながら「無限の猿定理」のようなものなのかもしれない。
 私は古今東西の日本人という無数に行われる試行の中の一つの猿であるのではないだろうか。

 この記事を書こうと思い立ったのは、ふと、夏目漱石の『夢十夜』を思い出したことに由来する。
 その中の第六夜の話を思い出したのである。
 木の中に仁王が埋まっているという話、とても似てはいないだろうか。
 一度思えてしまっては、それに憑りつかれてしまう。
 私が書く文章は、ある種元から定まっていたものではないのだろうか、私にはもうそう思えて仕方がないのである。
 私が書く文章の悉くが、予め「日本語」という言語に既定されていたものであって、私は何も生み出してなどいないと。
 私は「日本語」というタンスから任意の文章を引き出しているに過ぎないと、そう思えてしまうのだ。

 この点、音楽に至ってはより顕著ではないだろうか。
 曲の要素は言葉よりも組み合わせがもっとずっと少ないではないか。
 実際、曲調が似ていてとコード進行が同じだったり、メロディラインが同じになることは、往々にしてあるし、それだけでパクリと言われる光景も何度か見たことがある。

 それなら、『夢十夜』の運慶が気が付けたのも道理に思えてくる。
 当時の職人が作る木の像は宗教色が強く、きっと内容に多様性が無かっただろう。
 だから、運慶はこのような狂気の理屈に陥ったのだ。
 『自分は「創作」していない。ただ職人なら誰でもできる、木に備え付けられた仁王を掘り出しているだけだと。』
 私は私の「創作物」を誇りに思っていると言ったが、私が誇りに思っているのは果たして本当に私の「創作物」なのだろうか。
 私はただ、私の伝えたいことを伝えるために、「日本語」という媒介をいい様に用いているだけなのかもしれない。

 まあこう、結論付けても、今も、明日も、今後も私は私の作品に誇りを持ち続けるつもりで生きている。
 だけれども、私の疑念はまだ消えてはいない。
 いつか、解決すると願って本記事の終わりとする。

 なんだか、前々回の記事との二部構成みたいな内容になってしまった。
 noteの書きたいことリストは溜まっていく一方なのに、今日もその場で思いついたばかりのテーマで書いてしまう。
 今後はもっと単純で簡単で短い記事を書けたらいいなとばかり思う。

 読んでくださり、ありがとうございました。
 次回もお楽しみに。


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