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90年代を考えてみた

オリンピック開会式直前に起こった小山田騒動で、度々目にした「90年代の悪趣味/鬼畜ブーム」の話。

私は88年生まれなので90年代はもろに幼稚園〜小学校時代で、ヒット曲や幼いなりに感じた時代の空気感はうっすら覚えているけど、もちろんサブカル文化に触れるほど物心はついていなかったし、家にパソコンはあったもののまだ通信料金が高くて、軽くネットで調べものしてポスペ(懐かしい!)で友達からのメールを確認する、くらいしか使っていなかった。

2000年代はバリバリ「自分の時代」だし、80年代以前についてはもっと大人になってから調べて、知らないことがあっても「自分が生まれる前の世界」と認知しているので素直に受け取れた。そういう意味でぽっかり抜けたまま体験した気になっていたのが90年代だったのかも知れない。と、今回の騒動で思った。

「渋谷系」ひとつとっても、フワフワしたオシャレ系で興味ないな、と思ってたけど、当時そんなイキッたイメージだったなんて全然知らなかった。

とか、そんなきっかけでネットの海を色々漁っていたら、雨宮処凛さんの『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。』という記事を見つけた。90年代のロフトプラスワン界隈の雰囲気が伝わってくる、興味深い内容だった。

特に興味を惹かれたのが「27歳で自殺した、AVで処女喪失したのが売りの女性ライター」の話だった。彼女(井島ちづるさん)について調べていたら、Twitterで吉田豪さんがオススメしていたロマン優光さんの『90年代サブカルの呪い』が出てきたので、読んでみることに。

2019年に出た本ですが「小山田圭吾のいじめ問題」なんて項目もあって、今回かなり売れたんじゃないかなw

まとめると、鬼畜ブームとは、汚いものなど無いかのように振る舞っているキラキラしたCM的世界へのカウンターとして「わかってる人たち」で不謹慎をおもちゃにして遊んでいたら、予想外に売れてしまって「わかってない人たち」の一部がストレートに受け取ってほんとにやり出しちゃった、ということなんだけど、これは形を変えて今でも十分にあり得るし、かなり怖いことだなと思った。

「作者の意図」がどこにあろうと、「作品をどう解釈するか」は受け取る側の自由だし、作り手の意図とはかけ離れたところで文化として暴走してしまったとしたら、それを防ぐのはもう難しい。

「普通の価値観から離れた人をフラットな視線で観察する」こと(※この本でも指摘されているように、これは書く側のスタンスでしかなく、書かれた人がどう感じるかについて考えていないところにはかなり問題がある)が「変人/弱者を嘲笑って楽しむ」ことになってしまった、って、なんという悲劇。

でも、一般の人を取り上げたドキュメンタリーって常にこういう危険性を孕んでいるよね。小山田事件に憤った一人である私だって、『ザ・ノンフィクション』みたいな番組が好きで、でもあの番組も出演者を必要以上に変人/ダメ人間として描いている、としてしばしば批判されているし、逆にそのまんま受け取った人が出演者を誹謗中傷する、ということも起こる。ある程度はフィクション、と分かった上で楽しめばいいと思うんだけど、SNSで簡単に凸できる時代には制作側で「察してくれ」じゃダメで、もう「一部演出上のフィクションが含まれます」とかテロップ入れなきゃいけないのかもしれない。

ちなみにロマン優光さんは、上述の雨宮さん的な「過激であればあるほど偉い」という風潮は初期ロフトプラスワンの特徴であって悪趣味/鬼畜ブーム全体がそうだったわけではない、と書いている(この話は井島さんの話とも繋がってかなりエグくて読んでて辛い)。

しかしこの過激化する心理は私が中高時代を過ごした頃の「中2病」に似てるところがあるなと思った。リスカしたり死体サイト見たり、ナチス研究や731部隊研究をしたり、「血が好き」とか言い出してヤバイ自分を演出する感じはすごいわかる(思春期にありがちだからこそ「中二病」って言葉が流行ったので、90年代の話とは無関係かも知れないけど)。ちょっと違うけど、当時V系バンドにハマってバンギャになった子たちは全員学校やめてたなあ〜。

私はいわゆる病み系ではなかったのだけど、当然のごとくゴスロリの洗礼は受けたし(日焼けが好きなので白肌命の文化には本質的にはハマれず抜けたけど)、カッターで好きなバンドのロゴを刺青風に彫ったりしていたし、まさに中2の頃には隣のクラスの半数以上がリスカ常習者になって学年の問題として取り上げられたこともあった。学校全体がそんな雰囲気だったのはゼロ年代のせいだったのか、東京都内の田舎の女子校であるマイ母校が独特だったのか、それとも今でも普通にあることなのか、その辺はわからないけど、今思い出すとちょっと異常だったなと感じて面白くもある。

逆に衝撃的だったのは、80年代中盤までは「陰毛が生える以前の少女の性器は性的なものではなく猥褻には当たらない」とされていてモザイクなしで雑誌に載っていた、という話。これには驚いた。「そんな子供に欲情するような変態がいるはずもない」という雰囲気があっただろうとは想像できるけど、写真までOKだったとは・・・。まあ違法じゃなきゃ合法ということだったんだろうけども。

あと90年代の女子高生ブームの頃、「大人が女子高生を性的な対象としてみること」がそこまでタブー視されていなかった、というのはなんとなく時代の空気感として覚えている。あの当時の成人漫画を読むと、モテそうなイケオジが女子高生連れて歩いてたりするのよね。余談ですが、エンコーをどう思うかは置いておいて、私は小学生当時、いかにもエンコーしてそうな90年代のコギャルに憧れてました笑。私のルーズソックスギャル好きは多分あの頃の記憶が影響してる。

とはいえ、宮台真司が「援交少女たちにも自己決定権がある」という形で擁護していた、というのは(もちろん今なら完全アウト)、結局「自分の若さを売る」ことの意味やリスクをちゃんと考えてやっていた子がどれほどいるのか、ということを考えると、一律アウトにするしかない、と感じる。わかった上でやるなら、自分の時間や能力を売る普通の労働と同じだから良いと思うけど、簡単に売れるから安易に始めた子が大半だろうし、手玉に取ってるつもりのオヤジたちに実は消費されただけなことに気づく年齢になった時に「女子高生じゃない自分には価値がない」みたいな思考になるのはとても勿体無いし危険だと思う。

こういうことを考えていると不思議と繋がってくるもので、たまたまアマプラで見つけた庵野秀明監督『ラブ&ポップ』(1998年)を観たら、ちょうど援助交際をする女子高生の話だった。無名時代の仲間由紀恵が出ていてめちゃくちゃ可愛かった。ルーズソックスを履いた足のアップの連続が、たった3年間しかない女子高生というブランドの力を感じさせてなんかよかった。自分で性を売りにしておきながらほんとに対象にされたら傷つくウザイ感じとかも含めて。笑。そして更に、これは観れてないのだけど、『ラブ&ポップ』のメイキング映像は『90年代サブカルの呪い』でも大きく取り上げられているAV監督のバクシーシ山下カンパニー松尾が撮っているらしい。そういえば庵野監督も90年代サブカルの人か。

結局全然90年代を考察できていないけど、私は今でも連続殺人犯や凶悪事件の犯人の心理に興味があるし、多分90年代にティーンエイジャーだったらやっぱりそこそこサブカル系好きだったと思う。なので世界の闇部分のすべてを排除する世の中になってしまうのは困る(隠すと更に闇に潜った悪いものが生まれそうだし)。だからこそ、今回のような文章の発表が許されてしまった背景をちゃんと考察して、悪いところは改めた上で、また「心酔しているわけでも実行することを推奨するわけでもない」ということを踏まえた上で、キラキラしたものとは別の文化も見ていきたい、と、改めて思ったのでした。

ただ、今回は90年代を悪趣味ブームから見てみたけど、千葉雅也さんが「90年代的品の良さ」を主張していて、これだけだと何を指してるのか具体的にはわからないけど興味あるな、と思った。
まあ「悪趣味ブーム」はあくまでサブカル界のことであって、それを90年代全体のこととして語るのも乱暴だよね。ゼロ年代の全員がゴスロリ着てたわけじゃないのと同じで。
あの頃のネットは純粋に楽しかったな…という感覚は私ですらあるし、その当時物心ついていた人たちにいろいろ聞いてみたい。

★NANASE★


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