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第三話 螢惑

※才四郎と和尚が寺でさし飲みした時のお話です。前編は和尚視点、後編は才四郎視点で書いています。

 だいぶ夜も更けた。魚釣り星の付近で螢惑がいやに赤く輝き始める。

ーー悪相とならねば良いが。

 夜空を見上げつぶやいた言葉は、静かな廊下にひっそりと落ち、蛙の声にすぐさまかき消されてしまった。

 和尚は言ってもしょうがないという風に空から視線を外すと、銚子と盃を載せた盆を片手に足音を立てず縁側に続く廊下を行く。すでに寺の者は床についたか寝静まっている。蛙の騒がしい鳴き声だけが林の向こうから染みいで、辺りに満ちている。隣室の障子の前で一度歩みを止める。愛らしい姪っ子のたてる微かな寝息を確認し、口元を緩めると。そのままさらに奥の客室へと歩を進めた。

「今宵、吉乃を助けてくれた礼に、うまい酒を振る舞いたい」

 そう件の人物をさし飲みに誘ったのは和尚である。もちろんその人物とは他でもない。吉乃を護衛して来た忍、才四郎である。この忍、おそらく亮太郎に吉乃の陵辱と暗殺の命を受けているのは明らかであるのだが。姪から話を聞く限り、そのようなそぶりを全く見せないという。

ーーおかしい。一体何故に?

 見る限り、簡単に情に流されるようなうつけには見えない。戦場を離れて暫く経っているとはいえ、そのような勘は衰えるものではない。
 それを証拠にこの寺への連絡の入れ方、進入経路の確保や段取り。今朝の受け答えを見聞きする限り、身分をわきまえており、知恵もある。吉乃の言うとおり、腕もそれなりの上忍であるに違いないようだ。そのような者が、一銭の得もなしに、主である領主にそむき、あのような強情っぱり、ーー自分の姪に対してずいぶんないい草であるが、のために隊抜けまでして、付き随っている……。全くもって理解の範疇をこえている。

 頭をひねりながらゆくうちに、客間。才四郎の部屋の前にたどり着いていた。
 歩みを止め、息を殺す。そして……。はたと気付き、自らがおかした不躾な行いに慌てて、居を改める。昔武人であった時の癖で、無意識に室内の気配を伺ってしまった。

 どうやらあちらも起きて待っていたようだ。こちらのただならぬ気配を感じてか、刀を自らへ引き寄せたのが手に取るようにわかる。

ーーこのような所作一つとっても、うつけとは考えられぬが。

「すまん、わしじゃ。般若湯を持ってきた。清酒だぞ。そうそう飲めん。共にどうだ」

 出し抜けに明るく声をかける。その声に不意打ちを受けたように身じろぎした才四郎が一瞬何か言おうとし口をつぐんだのも分かった。無論言わずもがなお見通しである。和尚は内心舌打ちをしながら続ける。

「坊主なのにいいのか、などと不粋なことを申すなよ」

 男が観念したような、笑みを殺したため息をもらす。すぐさま返答が返ってくる。

「いただきます」

 障子が開いた。才四郎が顔を出す。奴の本心がわからぬのであれば、やきもきせずに直接腹を割って、聞き出せばいいだけの話だ。……酒の力を借りて。

「待たせたな。そこに座られよ」

 和尚はにやりと笑みを浮かべ、自ら先に縁側の縁に腰を掛けた。


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