作品の「わかりやすさ」は価値ではない
世の中に存在するものには、「わかりやすい」ものと「わかりにくい」ものがある。
私達は日々家に帰るとテレビをつけドラマを見る。週末には映画を観に行く。アニメでもミュージカルでも舞台でもいい。空いた時間に読書だってする。
そうして大抵は、一緒に観た人と感想を言い合う。SNSでシェアする。
そのように物語を感じ取るとき、私達は意識せずともひとつの大きな尺度を持っている。
それは、「わかりやすさ」だ。
私はガンダムが好きだ。様々な作品がある中で、観たものはほとんど好きだけれど、『Gのレコンギスタ(以下Gレコ)』をとりわけ好んでいる。
この作品、アニメやガンダムにアンテナを張っている人なら未視聴でも知っているだろうけれど、極めて賛否両論の評価だ。というより、あまり評価されている声を聞かない。
個別の作品について詳述は避けるけれど、嫌われている大きな理由はシンプルで、「わかりにくい」からだ。
26話というガンダムテレビシリーズとしては少ない話数で、とてつもなく広大で複雑な世界を描こうとしたこともあり、たしかにGレコはとっつきづらくかなり理解しにくい。
わかりにくさに拍車をかけるのが、作中での「丁寧な」説明のなさだ。一般的な作品では行われる世界観の解説や登場人物の心情吐露、置かれている状況の整理等々の描写が極めて少ない。
さらに、登場人物達の会話も噛み合っていないことも多く、またその内容も私達の知らない用語や前提知識で満たされていて混乱する。
それでも私はこの作品が大好きだ。面白かったし、観ていて楽しかった。
もちろん、後々見返しながら細かい部分まで理解できたときの感激や感動もあったけれど、はじめ意味もわからず何とか食らいつこうと観ているときはもっと楽しかったのだ。
「わかりにくい」けれど、Gレコのキャラクターが、世界が、私の心を踊らせた。
何が言いたいかと言うと、「わかりにくい」けれど面白いものもあれば、「わかりにくくて」つまらないものはある。
わかりやすいことは価値と直接の関係はない。
そんなの当たり前だと思うだろう。しかし、そんなことはない。
私達は「わかりにくいもの」や「理解できないもの」を避けようとする。無論、避けること自体を悪いとは思わない。嫌なものを目に入れたくない気持ちは私にもわかる。
しかし、最近のSNS等を観ていると避けるどころか自分(あるいはマジョリティ)に理解できないものは価値がない、存在すべきでないと考えている人を見かけることが増えた。これは避けることとは大きく違う。キツイ言い方をすれば、理解不能なものを排除するということだ。
比較的時事的な話題で言えば、「あいちトリエンナーレ2019」がある。
この件については、様々な論点があり一面的なことを言うべきではないことを十分に踏まえた上で述べる。この問題が取り沙汰されているとき、私は正直どちらの言い分にも理解できる部分があった。
しかしながら、開催自体を中止に追い込もうという動きに発展したのは恐ろしかった。作品や趣旨の是非は「批評」という形で語られてしかるべきであるし、発信する側も開催する側も互いに責任をもって議論することは大切だと思う。しかし、今まさに存在している作品の発表をやめさせようとするのは、上で述べた「理解できないもの」を排除しようとすることと同じだと私は感じた。
作品自体が非倫理的で公共的でない、不適切だ、という声もあったように思う。しかし私見を述べると、非倫理的・非公共的なものをテクニカルに興味深く表現することがそもそもの芸術や文学の領分であると思うので、それだけで作品の公表機会をなくそうとするのは感情的であるに過ぎるのではないだろうか。(もちろん、しっかりと作品を「現地で観た」上で、センスのない作品だとして積極的に批判するのはとてもいいと思う。)
私達は「わからない」ことに出くわすと、不快感や苦悩を感じる。価値と呼ばれるものには、主観が多分に入り込んでくるため、その感情を価値と同一視してしまうことがある。
とりわけ、芸術作品はわかりにくく表現されているものも多いため、受け入れられ難いのだろう。
「わかりにくい」ものを受容するにはある程度の我慢を強いられるのだ。
私自身がこのことを自戒させられる経験があった。
先日『万引き家族』を観たときだ。私は、この作品を見終わって感想が出てこなかった。心がもやもやした。
わからなかったのだと思う。そしてその「わからなさ」がきっと私の中に不快感として残った。
『万引き家族』には、文脈や筋道があまりなく、表面上のメッセージが掴めない(あえてそうしているのだと思う)。描写に徹底して、一面的な理解や解釈を拒否していた。彼らがただ「存在する」ことを表現した。
だからドラマティックな展開を好む私にはわかりにくくて、消化しづらい。この作品の価値を考える上で、わからなさへの「我慢」が必要だったのだ。
正直に言うと、私はこの作品はわかりにくさとは別の部分であまり好みではない。しかしこういう作品は価値あるものだと思うし、もっともっと生まれてほしいとも思っている。
それは、わかりにくさのその先に言語化や一般化できない真実があると思うからだ。
ところで、最も身近で「わかりにくい」ものは何だろうか。
それは「他者」だと思う。文字通りの意味で、自分以外の人。
対面であれば、表情や会話で考えていることを推測はできるけれど、本当に思っていることはわからない。言葉だけのインターネットやメールではもっとわからなくなる。
ましてや、他者のこれまでの経験や背景は見知った人でさえ理解し難い。
だから私達は他者が「わかるもの」であることに固執する。
できれば同じ趣味である人と友達でいたい。他人と自分が同じ考えであると安心する。
社会ですら「肩書」や「評価」といった目に見える「レッテル」で他者を理解可能な範疇に置いておくことで回っている。
これは仕方がないことであるとも思う。
人間は「理解できないもの」を「理解できるもの」とすることで文明を発展させてきたという歴史がある。言語は自分の内にある考えを明確化するツールであるし、科学は事象を合理化することで理解可能な形式を与える。人間は世界を理解可能にしてくれる理性の働きに重きを置いてきた。
しかし、これには注意も必要だ。
よく「理性的」というと冷静沈着で客観的であるようなイメージがあるが、私は理性も欲望の一つだと思っている。
わからないものをわかるものとしたい(しようとする)、つまるところ自分の中に同一化したいという欲望だ。
作品であれ他者であれ、「わかった」というのは「自分自身に同一化できた」ということだ。だから、わからなかったりわかりにくかったりするものには不快感(欲望の未達成)を感じるし、自分と違うものだと強く意識させられる。
しかし、私は最近の「わかりやすい」ことを価値尺度の一つとしてしまう風潮には強い危機感を覚えている。
おおげさかもしれないけれど、その考えの先には「わかりにくいもの」「理解できないもの」、例えば社会的弱者やマイノリティを排斥する思想が待っているように思うのだ。
「わかりやすいもの」と「わかりにくいもの」どちらも大切であるし、作品について言えば、私はわかりやすいものも好きだ(近年で言えば『君の名は』とか)。
しかし、矛盾するかもしれないけれど、私は「わかりにくいもの」をより大切にしたいと思う。その理由はシンプルで、わかりにくいものは常に弱者だからだ。
わかりやすいものは、たくさんの人に理解され、拡散され、称賛される。生まれついてのマジョリティだ。でも、見てきたとおり「わかりやすさ」と「そのものの価値」とは直接の関係はない。
であるならば、理解しづらいだけで理解しようとすらされず、価値を推し量られ、ましてや存在しないように仕向けられるのはとてもかなしいことだ。
だから、私は作品であれ他者であれ、「わかりにくい」ものに肩入れしてしまう。
願わくば、わかりにくくて自分とは異質なものが、この世界に存在することを肯定してくれる人が少しでも増えていかんことを…と思うのは傲慢だろうか。
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