贈り物が気づかせてくれたこと【後編】
会社の組織変更と「後処理」のダブルパンチ
一方、私は疲れ果てていた。父が亡くなってまもなく、会社で大幅な組織変更があり、週に一度進捗を報告するためのミーティングが新しく加わったのである。
当時私は、とある居酒屋の店舗責任者だった。
居酒屋は基本的に金土日や祝日が繁忙日のため、店舗責任者はだいたい平日に休みを取る。私は月火休みだったが、ミーティングはもちろん繁忙日を避けて差し込まれる。
休みである月曜日が毎週ミーティングとなったのだ。
今でこそ会議はリモートが主流となったが、先週の営業内容や今月・来月の営業方針、予測から大幅にブレた異常値の報告などを事前に資料にまとめる必要がある。
今でこそ1時間程度で終わらせられるが、当時はそれに3時間も費やした。
ミーティング資料の締切は、毎週月曜日の朝11時。繁忙日を乗り越えた日曜日の営業終わり、さて明日は早く起きて朝から資料を作らなきゃ、と店でパソコンを開いた矢先、母からLINEがくる。
『今日は帰ってこれる?』
私と「後処理」をする予定を合わせるべく、母も月曜日に休みを取っていた。
つい口走る本音
そんなに毎週実家に帰らないといけない?!
これが本音だった。
分かっている。「後処理」をぜんぶ母に押し付けるわけにはいかない。あれを全て1人でやるのは無理だ。
でも私だってきつい。本来会社から与えられるはずの週2日休みのうち1日が、会議と「後処理」で終わるなんて。それもわざわざ家と実家を往復する「移動時間」というオプション付きだ。
『これから帰るね』とだけ返信して店の電気を消し、鍵を閉めたことを確かめて、小走りで最寄駅の終電に乗り込む。次の日はみんな仕事だからだろうか、日曜日の終電は他の日に比べてさみしい。
営業は23時で終わったはずなのに、実家に着くころには1時を回っていた。ため息なんて出ない。当時はこれがあたりまえだった。
次の日は朝8時に起き、資料を11時までに作り上げる。その後簡単に身支度を済ませて母と「後処理」に向かう。
1ヶ月ほどそんな生活が続いたが、とうとう我慢の限界がきた。「後処理」の帰りに実家に着いてから、ずっとためらっていた言葉が口走る。
「あのさ、月曜日に実家帰るの、正直きついんだよね。ただでさえ週末の営業って忙しいし、会議も入ってるから。」。
「ごめんね、そうだよね。もう無理して来なくていいから。」と、母は申し訳なさそうに言った。
重い空気が流れ、朝から付けっぱなしのテレビの音ばかり目立つ。
限界だと伝えてすっきりした反面、母の悲しそうな顔を見ると罪悪感を感じずにはいられなかった。
翌週から母は、「後処理」のために私を呼ぶことはなくなった。
「想い」のサプライズ
あれから私は、月曜日こそ帰らなかったものの、それ以外の休みで週に一度実家に帰っていた。「後処理」は順調に進み、あとは父名義の車の処理を待つのみだった。
父の死から1ヶ月半ほど経ったある日、実家に帰ると母が「はい」と、手のひらより少し大きいクラフト紙の袋を手渡した。「欲しそうにしてたからさ。」。
中身を見て「えっ」と言葉がこぼれる。それは父が亡くなる日の昼間、父の病院帰りに母と近所のデパートで買い物をしていたとき、私が一目惚れした『空想街雑貨店』の名刺入れだった。
『空想街雑貨店』とは、「大人も持ち歩けるファンタジー雑貨」をコンセプトにした、水彩画で空想街が描かれている雑貨を展開する店である。
可愛らしくどこか懐かしい、温かみのある絵の世界観に私はすっかり虜になったものの、「どれも可愛すぎて選べない」という理由で買うのを断念したのだ。
母からの不意打ちの贈り物に驚きと喜びを隠せず、しかしそのままの思いは恥ずかしくて伝えられない私は、「ありがとう。まあ、店長にもなったからね」と、贈り物をくれた理由を考えて取り繕った。
それに合わせるように母も、「ああそうそう、昇格したって言ってたし」と続けた。
辞令こそまだ出ていなかったものの、私は6月から店長に昇格することが決まっていた。
最もつらい局面で見えた母の強さ
もらった贈り物を1人でしばらく自分の部屋で眺めていたが、嬉しい反面ある疑問が浮かんだ。
最愛の夫を失い、その日から「後処理」に追われていたにもかかわらず、最低週4でアルバイトに向かっていた母。
疲れて帰っても待っているのは、一人暮らしにしては大きすぎる空っぽの一軒家のみ。
人生で最もつらい状況と言っても過言ではない中、母はなぜ私に贈り物をくれたのだろうか? どこにそんな余裕があったのだろうか?
父が亡くなってから、母とのこれまでの日々を思い出す。
10分前に息を引き取った父を前に、文字通り膝から崩れ落ちて泣いた。
葬祭場に何度も足を運んでは父に手を合わせ、葬儀まで遺体が腐らないように何十万もかけて処置してもらったきれいな父の顔を見ては、また泣いた。
父似である私は、自分の顔を鏡で見るのもつらかった。
でも、私の隣には母がいた。
母は毎日、私を気遣う言葉を欠かさずにかけてくれていた。
実家に帰った次の日、実家から直接仕事に向かう私に毎回。
「いつも来てくれてありがとう。気をつけてね。」。
役所の手続きが一通り終わって、リビングでゆったり夜7時のニュースを観ていたとき。
「エビアンがいてくれて本当によかったよ。」。
毎週のように続く「後処理」に疲労が限界だったとき。
「忙しいのにごめんね。もう来てもらわなくて大丈夫だから。」。
余裕があるからではない。もともと母はそうだった。
母は自分が人生で最もつらい出来事に直面していても、それを差し置いて私を想ってくれていた。
いちばん心配し、気にかけ、そして感謝してくれた。
それが贈り物という目に見える形になっただけだった。
きっと今に始まったことではない。物心ついたころから思い返せば、数え切れない。
でも気づかなかった。
昇格なんかしなくても、母は贈り物をくれたんだと思う。
「大変だったけど、一緒に頑張ってくれてありがとう」という贈り物を。
与えてくれた分、贈ろう
私のことを、いちばん想ってくれる人は誰だろう。
私は迷わず、母と言う。
では私は? 私は仕事で追われていたとき、母のことをいちばん想っていたのだろうか。
私は、人生で最もつらい出来事に直面する母を心配し、気遣い、感謝していただろうか。
父が亡くなって1年が経った。
今でも父を思い出すだけでこみ上げるものがある。肉親の死という初めての衝撃は、これからも薄まることはないだろう。
大切な人を失った。
でも私はすでに、目に見えないたくさんのものを与えられていた。
そのことを贈り物を通して気づいた。26年かかって、やっと。
次は私の番だ。また大切な人を失う前に。