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孕む身体と風景の狭間に 馬場磨貴 『We Are Here』

本稿は、馬場磨貴 の写真集『We are here』(赤々舎 2016)について、「写真集と絵本のブックレビュー」に掲載した書評をもとに加筆・再構成したものです。
妊娠した女性を捉えた写真については以前より関心を持っていて、共著『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』所収の「マタニティ・フォトをめぐる四半世紀――メディアのなかの妊婦像」でも論じています。『We are here』は、女性が妊娠・出産することと、日本の社会的な(とくに東日本大震災以降の)環境との関係を考える上で重要な視点を与えてくれる作品だと思います。

巨大な妊婦のいる風景

馬場磨貴の写真集『We Are Here』は、裸体の妊婦が実物よりもはるかに大きな巨人のような姿でさまざまな風景の中に合成して嵌め込まれた写真で構成されている。巨大な存在が風景の中に登場する光景というと、「進撃の巨人」や「ゴジラ」のようなアニメや映画に登場する破壊者が連想されるが、「私たちはここにいる(We are here)」というタイトルの示すように、巨大な妊婦は何をするでもなく、ただ風景の中に佇んでいたり、歩いていたり、座っていたりするといった様子である。馬場がなぜ、このような突飛にも映る「巨大な妊婦のいる風景」というヴィジョンを思い描くようになったのか、写真集の内容に入る前に、作品制作にいたった経緯と着想について、写真集の後書きの文章を引用しながら解説しておこう。
馬場は、自身が妊娠・出産を経験する以前に出産の現場を撮影する機会を持ち、2010年から妊娠中の女性のヌードを撮影するようになった。その後、自らも幼い子どもを抱え、妊娠中だった時に東日本大震災と原発事故が起こり、その後多くの妊婦や小さな子どもを抱えた母親がそうであったように、被爆やさまざまな問題に直面し、さらに2011年以降3度の流産を経験する。

体内に私がまだ経験したこともない「死」があることに震えた。 私のお腹の中に起こった生と死は、女性が意志の力ではどうにもならない弱い存在であることを気づかせてくれた。 弱者の目をもつこと、それはきっと強者の目をもつことよりはるかに難しく、はるかに大切なことかもしれない」

体内に宿った胎児が、この世に誕生する前に死を迎えてしまう。このような経験を繰り返す中で、馬場は身を持って、人間一人一人の存在の脆さ、小ささ、儚さをを自覚する。「巨大な妊婦」という存在を風景の中に出現させる着想は、彼女自身がこの世に生を受けなかった胎児たちとの間で、束の間に結んだ関係の中から導き出されたのかもしれない。馬場は作品のインスピレーションを受けた瞬間のことを次のように語る。

「ある日街を歩いていて突然閃いた。目の前のビルの合間から、巨大な妊婦が現れた。その大きな姿に解放感とたまらない安心感を覚えた。それまで感じていた行き場のない怒りと、腹の底から湧き上がる不安のようなものが、ふっと軽くなった。 かくして彼女たちは誕生した。」

小さく脆い存在としての自身の視点から、「巨大な妊婦」の姿を想像し、その姿に解放感と安心感を覚えたという馬場の言葉には、私自身が妊娠中に経験した身体的な感覚に照らし合わせても腑に落ちるところがある。妊娠中の身体は、悪阻を感じる初期段階から臨月を迎えるまで、めまぐるしく変化する。妊娠初期には、身体の中に入り込んだ小さな異物が身体の感覚全てを支配しているような状態になり、妊娠週数を重ね、胎児の成長を常に意識ながら日々を過ごす中で、胎児を基準に自分の身体の状態を測るようになる。妊娠中に特有の身体感覚は、周辺の環境に対する感じ方にも大きな変化をもたらす。馬場が街の中で閃いた「巨大な妊婦」の姿は、胎児からみた母体という存在のスケール感覚を反映しているのではないだろうか。
巨大な妊婦の姿を思い描きながら都市空間へと向けられた眼差しには、ビルや建造物のような無機物が集積してできあがった光景を前にして、自分自身も世界の中につながっているという感覚を希求し、確かめるような気持ちが潜んでいるようだ。

都市風景と妊婦 その存在の見えにくさ 

『We are here』は、写し取られた空間と、合成された妊婦との関わり合いが、スケールの上で、徐々に変化していくようなシークエンスとして構成されている。また、妊婦の姿も全身像として写されているものもあれば、腰から下のみ、あるいは腰から上のみがフレームの中におさまっていたり、大きなお腹や胸、太もものような身体の一部のみがのぞいていたりするような写り方もある。顔が写っていて、人物として特定できる姿として妊婦が嵌め込まれた写真と、半身や身体の一部のみとして妊婦が嵌め込まれた写真が、シークエンスの中に入り混じっていたり、モデルによっては複数の風景写真の中に嵌め込まれていたりするので、ページを捲っていると、妊婦がそれぞれの風景の中に佇んでいるだけではなく、複数の風景の間を移動しているかのようにも見えてくる。

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数寄屋橋交差点

写真集の中からシークエンスの流れに沿うようにいくつかの写真を紹介しながら、妊婦の嵌め込まれた風景と、写真同士の関係を読み解いていきましょう。まず冒頭では、東京駅にほど近い数寄屋橋の交差点付近の路上に妊婦が現れる。車がひっきりなしに行き交う路上で佇む裸の妊婦は、ほぼ実寸に近い大きさで合成されていて、裸体で路上に立っているという状態があまりにも無防備で、今にも車にひかれてしまいそうな危うさ、脆さを印象づける。

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その後に続く写真では、路地裏や歩道橋の上、建物の駐車場、家の軒先など、ごくありふれた路上の光景の中に妊婦の姿が嵌め込まれている。裸で大きなお腹を晒しているがゆえに妊婦としての姿が際立たされ、通常は街中にいてもさほど目立たない(だからこそ、マタニティマークのような目印が必要とされているわけですが)妊婦の存在が「ここにいること」として示されています。多くの人々が行き交う交差点を俯瞰する視点で捉えた写真のシークエンスの中の一点に裸の妊婦が一人だけ忍び込まされることで、「世の中に妊婦が存在していることのわかりづらさ、見えにくさ」が浮き彫りにされている。

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東京ドーム

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恵比寿ガーデンプレイス

このように都市空間の中での「妊婦の見えにくさ」が示された後に巨大な妊婦が。ビルの谷間や高速道路の隙間から姿を現したり、線路を跨いだり、高速道路の隙間から姿を現す妊婦たちは、実寸大で風景の中に嵌め込まれていた妊婦と同様に、裸で無防備なまま佇んでいる。妊婦の肢体、とくに張った胸や丸いお腹の曲線は、ビルのような建造物や道路の直線とコントラストをなしている。また、風景の中に路上の人々の姿が小さく写り込むことで、妊婦の姿のスケール感と、画面の広がりや奥行き強められている。
都心の写真の中でも、東京ドームや恵比寿ガーデンプレイス、新宿御苑のような、ランドマークのような建物があり、多くの人が集まる場所で撮影されたものは、巨大な妊婦たちはその場所の周辺に集まっている人たちの視線を集めながらも、彼女たちは構うことなく、堂々と存在しているように見える。

被災地に佇む巨大な妊婦たち

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写真集の後半では、妊婦が登場する風景は、都心から離れ、河川や海辺、工場のプラント、発電所と続いたあとに、福島第一原子力発電所周辺の立ち入り禁止区域付近や、除染作業が行われている地域へと続いていく。

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都心を離れるにつれて風景の中に写り込む人影も疎らになり、巨大な妊婦だけが風景の中に佇むようになっていく。また、高層建築に囲まれる都心の景色とは異なり、木の茂みや一戸建ての家屋が点在する空間が捉えられているため、妊婦の姿は建造物との関係だけではなく、その風景の地面との関係がより強められているようにも見える。東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故後、放射能汚染により多くの住人が周辺地域から離れて避難している状況を鑑みれば、妊婦が「ここにいる」存在として描き出されていることの危うさ、意味合いが重みを増してくる。
原発事故後の風景を経た後に、写真集の最後に掲載されているのは、広島の原爆ドームを川越しに捉えた風景で、川面には原爆ドームの傍らに佇むようにして妊婦の姿が写し込まれている。妊婦の姿は地上に立つ姿としてではなく、水面の影として映し出されているために、原爆忌に行われる灯籠流しを連想させ、原爆の犠牲者への鎮魂の祈りと、未来に命をつなぐ願いが込められた場面として、シークエンスの締め括りに重い余韻を残す。

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このように写真集のシークエンスに沿ってみると、『We are here』は、エネルギーを消費する都市部と供給する地域との関係、原子力をめぐる現在と過去の関係を軸にして、命をはらみ育む女性一人一人の存在を、現代社会の風景の中に位置づけて描き出そうとする試みとして読み取られる。巨大な妊婦を風景の中に現出させる表現方法は、一見すると奇を衒ったものに映るかもしれないが、弱くとも小さな命、その命を宿す女性の存在を可視化するために必然的に導きだされた方法と言えるのではないだろうか。

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