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「あまから手帖」で、veganコラム連載中

「え?あまから手帖で?」と言わないで。

関西の食の雑誌「あまから手帖」は、正統派美食雑誌でして、概ね誌面はミーティー(肉っぽい)。そのなかで、2月号から書き始めている連載「GO VEGAN」。

この前々年に松永智美さんの素食のお話を一年連載したが、私の(休み休みでの)素食ウォッチャー歴は結構長くて、振り返れば10年くらいになりますか。はじめて台北で素食を「発見」した時の衝撃は、ただただ「これ、面白すぎるやろ!」だった。台湾素食は中国料理の精進料理だが、日本の精進とちがって「もどき料理」の百花繚乱ぶりが特徴だ。(「肉そっくりの精進料理は不純だ」、というよくある批判には、きちんと答えがあります。おいおい書きますがいまは省略)乾燥きのこが肉汁したたるステーキになり、大豆ですっぽんや鳥の丸焼きもつくってしまう。200品がすべて植物性素材という有名素食ブッフェレストランでは、肉魚をこれでもかともどくクラフトマンシップに圧倒され、笑いが止まらなくなった。

いや、実のところ「笑うしかなかった」場面があったのだ。それは、自分の味覚が、もどき料理にいともかんたんに騙されてしまうという衝撃的な体験だった。たとえば寿司。私が行った素食ブッフェレストランでは、寿司バーが設けられて、白衣の職人が威勢良く迎えてくれた。手巻き寿司を注文すると、寿司職人そのものの手ぶりでパリパリの海苔にシャリを乗せ、フレッシュなマグロ(こんにゃく)を手際よく巻いてくれた。わさび醤油をつけて食べたら、それは私の口の中で、マグロの手巻き寿司に「なって」おり、頭の中では「脂がのってておいしいなあ」という感想すら起こった。寿司職人のパフォーマンス、海苔の香ばしさ、わさびの刺激、マグロに似たこんにゃくの舌触り。そうした条件から、私の頭の中でオートマティックに「マグロの手巻き寿司」の味が起動したのだ。それまで自分が信じていた味覚のメカニズムを笑うしかない体験だった。味とはそのように学習的、反射的、創造的なもので、味自体が「絶対」だったり「究極」だったりする理屈はありえない。

宗教的な動機でも、動物愛護的観点からでも、健康志向でもなく。

ヴィーガンで「味わうことのクラフトマンシップ」を鍛えたい。

さいきんでは環境問題や健康志向からヴィーガンが注目を集めているが、私の関心は「食のオルタナティブ」としての、もどき料理にある。代用食、選択肢という意味でのオルタナティブではない。いま一般的にいうところの「おいしい」=一口目から万人が美味しいと感じられる味を、受け身で味わうのではなく、自分の味の経験値と創造性を動員しながら、能動的に味わう、という意味での「食のオルタナティブ」だ。平たく言おう。料理人も食べ手も、こんにゃくをマグロにできる可能性があるということを、もっと楽しめばいいのにと思う。

この連載で扱うのは、宗教的、健康上の理由から肉を排除するベジタリアン食ではなく、もどき料理を楽しんでいる料理人の店とした。第二回で扱ったUPGRADEさんは、大豆製品のメーカーの出店で、唐揚げは、大豆ミートを粉砕して繊維を再現、肉汁が滲み出るような食感をつくりあげている。しかし、これを「肉っぽさ」だけでジャッジしてしまうのはもったいない。「もどき」というテーマを前に、作り手は、食材が持っている肉らしさの要素(食感、コクなど)を検出して、憎らしい表現として料理の中に構築する。食べる側は、集積されたその情報を、自分自身の食の経験値も動員しながら食べる。ここに表現された「肉らしさ」がどれだけ「“ぽい”かどうか」は、最も大事なことではないかもしれない。双方が技巧を出し合い、探り合った到達点として感じられる味に価値がある。もどき料理は「そっくり肉製造コンテスト」ではないのだ。

ヴィーガンには「味わうことのクラフトマンシップ」がある。




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