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「表現の不自由展」京都。バリケード越えて展覧会に行ったのは、さすがに人生初‥‥

なんかここ数日、いやに街宣車が集まっててうるさいなあとおもいつつ、展覧会の予約の時間めがけて自転車を走らせていたら、市役所周辺と会場に向かう道が街宣車と警官だらけで、どんどん物々しくなってくる。右翼の怒号のターゲットは「表現の不自由展」京都、まさかの自分の行き先であった。

御池通りから東洞院に警察官、公安100人はいたか。税金の無駄遣いのような。
会場はバリケードの中。警察官が「ここより内側には入れません!」と制止するが、いやいや私、中に入るために来たんですが。

東洞院六角にバリケードと警官が立っており「ここより、入れません!」と静止され、遠くから街宣車のがなり声がワンワン響く。頭上では報道か監視のためかヘリコプターが旋回中。怖気付いて、展示を見る前に引き返す人もいそうだ。胸に弁護士バッジをつけた支援者らしき高齢の男性ににこやかに「入口、こちらですよ」と招き入れられる。いやこれは皆さん本当に本当にお疲れ様ですな。いったい、なんでこんなことに?


会場内はピースフル。こんなにじっくり展示を見ている観客の姿というのも、本当に清々しい。大人の学びがここにある。

バリケードにおののいて、うっかり忘れてしまいそうだが、「不自由展」、、いま一度、展示の趣旨を確認したい。

「表現の不自由展」は、検閲や社会的な圧力により展示中止に追い込まれたアート作品を集めて展示する美術展です。


日本軍、天皇の戦争犯罪を問う作品や反戦のメッセージを含んだ作品があることで「あいちトリエンナーレ2019」で問題視され、誰もが知る「反日展覧会」ブランドとなってしまったがために、開催地の先々で、右翼の攻撃対象になり、爆竹や怒号がついてまわるようになった。

雰囲気はむしろ、学習展示

平たく言うと、表現の自由が保障されているはずの日本の知らないところで、こんな作品、あんな表現が「消されている」ことを学ぶ「学習展示」だ。展示室内の雰囲気は「ふむふむ」「ふーん」な感じの平穏そして平温が保たれていた。

前山忠「反戦」シリーズ。1971年第10回現代日本美術展で反戦旗とともにカンパ箱を出品。強制撤去。
1965年、赤瀬川原平が千円札を題材にしたことで起訴。67年に「表現の不自由展」を開催した。
丸木位里、丸木俊の絵本「ピカドン」。1950年GHQより発禁処分。原画は押収。
不自由展のアイコン的作品。森妙子「Requiem 鎮魂歌」

不自由展のアイコン的作品(になってしまった)、森妙子「Requiem 鎮魂歌」は、いい作品だと思った。「隣に座ってください」とあるので座ってみた。彫刻の量感て、ものを言うな。
自分と肩を並べて、体を固め手を握りしめて前を見つめている彼女に、何か言ってあげたくなった。「さっきのにわか雨すごかったですねえ」とか。
足元からはおばあさんの影が延び、背後の蝶々は彼女の魂を表現している。
「蝶々を飛ばしてあげてください」と、用意された紙の蝶を作品に留めることを促されたが、いま方々からスマホを向けられ、怒号を浴びせられている「彼女」の気持ちはわからないので、ご遠慮した。

おなじ「彼女」の作品で、岡本光博は「慰安婦像=反日」というシングルストーリーをくじいて見せる。
韓国国内、世界各地に金の慰安婦像が建立され、それが政治利用されていることを語る作品。つまり「彼女」が何重にもカゴの中にいることを表した。「彼女」の肩にとまった鳥(韓国にある慰安婦像を3Dスキャンして製作、カゴの中の写真は製作中の岡本さん)は、自由を象徴しているにもかかわらず、飛ぶことができずに、金の檻に閉じ込められている。

右にも左にも利用され続ける「彼女」のイメージについて話がしたい。

岡本光博「表現の自由の机 2」

「不自由展」が扱うのは、「アート作品を展示中止に追い込む検閲や社会的な圧力」。アーティストは坑道のカナリアとして鳴く。


岡本光博さんは、被った検閲と公開停止のバリエーションが(たぶん)日本一豊富なアーティスト。ヴィトンのバッグを使った作品「バッタもん」でのルイ・ヴィトン社との争い、商標著作権に挑戦した「ディズニーアート」でご存じの方も多いのではないか。
世の人が薄ぼんやり「触れるとやばい」と自己検閲してしまうものに実際触ってみて、有毒ガスがどこまで迫ってきてるを鳴いて知らせる坑道のカナリアのようなお方。

展示では、最近の「成果」を小型作品にダイジェストしている。

岡本光博「表現の自由の机3」

パラシュート兵が降下する絵に「落米のおそれあり」と書いた警告看板作品。相次ぐ墜落事故をうけて沖縄で制作した警告看板作品。沖縄の伊計島のシャッターに描いたが、ベニア板で封鎖され公開拒否となった。作品はそのミニチュアと作家による非公開への抗議文。

岡本光博「表現の自由の机5」

水に浮かんだドラえもんのオブジェ「ドザえもん」。著作権の問題と許容範囲を問うた作品。青森県立美術館で展示されたが、作品タイトルを伏せ字にされた。そのキャプションとドザちゃんのミニチュア。
作品名伏字のキャプションの、ミョ〜なこと。
結果的には主催者とコラボしたかのようなシュール作品になってしまった。

「我々はこんな不思議な社会に生きている」と岡本カナリアは鳴いている。

岡本光博「表現の自由の机4」

岡本光博キュレーションの「美術ヴァギナ」展にも出品した、ろくでなし子。2020年7月に最高裁で有罪判決をうけたところの、問題の3Dまんこデータのリアルがこれ。 え、、、、これが「わ、い、せ、つ」‥‥?

情報で知るのと、実際に見ることのギャップの大きさは、「不自由展」にきた人全員の感想ではないだろうか。反日アート展でもないし、ましてや特定の思想や誰かの名誉を毀損したり、挑発したりする意図もない。観たらわかることなのだ。

けしからん判断やとほほな偏見が「公開停止」を決めるのはまだわかる。どうしていいのかわからないから、とりあえず隠したり、なかったことにしたがること。さらに、伝え聞いた話だけで「断固拒否」とヘイトを始めたり、逆に「断固支持」として右翼や保守的な考えを、上から目線で攻撃するのは、もっとよろしくないと思う。

地獄への道は善意で舗装されている


表現の自由について、ご立派な発言をした「良心派」リベラルの方がおられるが、「観てもいない人」たちの妄想が歯止めなく広がって、不自由展をいま日本でもっともビッグな「反日展覧会」ブランドにした。

岡本さんから伺った話だが、会場には街宣車の乗組員さん数名が直接、会場に来られたという。周りが「そうと気づかなかった」というから、示威行為に出ることなく、作品説明にもちゃんと耳を傾けておられたそうだ。

街宣車が総出で出てこなければならなかったのはここまで「反日ブランド」となっている展覧会をおとなしく開催させていたら、彼らの存在理由を問われかねないからということもあるだろう。

街宣車の怒号に耳を傾けてみたが、がなりたてているだけで、ほとんど言ってることに意味はなかった。怒号をまとめて、観もせずに賛否をうんぬんする人たちの耳元にぶちまけてやりたくなった。だって、善意の人ぶってるあんたらのせいやがな。






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