#07 経済学における計算力と教養力

リチャード・P・ファインマン。くりこみ理論やクォーク理論の先駆者であり、経路積分やファインマン・ダイアグラムなどを考案した彼はまた、科学で人を面白がらせようとした生粋のエンターテナーでもあった。

そんな彼はもちろん、他人のみならず自らを知的好奇心によって満たし続けた。原子爆弾の機密情報を入れておく金庫を勝手に解錠して中にメッセージを残す。ブラジルでボンゴを練習し名手になる。新婚旅行中に暇つぶしでマヤ文明の暗号を解読する。癌を患っていたにもかかわらず、1921年から1944年という短い間だけ独立国として存在し、その後ソ連に併合されたタンヌ・トゥヴァを、幼少期の切手収集とKYZYLという綴りの首都への興味から訪れようと画策するーー。

そんな彼がいかにエレガントに、そして説得力をもって、科学のもつ魅力を余すところなく語ったのかーーそれは『ファインマン物理学』を読めばわかるそうだ。そして、『ファインマン物理学』は物理学の教科書にしては珍しく、数式よりも地の文が多かったそうだ。これについて、サイエンス作家の竹内薫はこう述べている。すなわち、数学は言語である以上、数式の背後にある物理現象に対するイマジネーションが重要なのだと。そして、いかに数式が完璧だとしても、イマジネーションが欠けていては数式を書き連ねるという意味では雄弁だとしても中身がないのだと。

さてここに、私は(これは私文系の経済学部生に多いパターンだが)数学が得意でない学生が理論を研究する上での活路を見出している。同時に、理系から経済学の世界へと流入する人も多い中で、文系出身の経済学とが彼らとどう競うのかについても活路を見出している。もちろん経済数学についての鍛錬を日々積むことが重要なのは言うまでもないが、数式で勝負できないのであればイマジネーションで勝負すれば良いのではないか、と。もともと、文系と理系の違いは数学が得意か苦手かと言うのではなく、研究対象が人間や社会なのか自然なのかというところにある。そして、イマジネーションというのは現実の社会をどのように捉えているのか、言ってみればその人の持つ世界に対する観念なのである。そうであるとすれば、研究対象を人間や社会とする文系の方が必然的にイマジネーションという部分において優位性を持つことは明らかであろう。さらに言えば、経済学には分業体制が重要だと強調してきた歴史があるのだから、文系出身者が論文の青写真を描いて理系出身者がその青写真に従ってモデルを作成する、というような分業体制を整えるのも実は良いアイデアなのかもしれない。

(ちなみに、理系教育を重視する言説のなかに文系を軽視する言説が見られることも多いが、これに賛同する気はさらさらないことも述べておきたい。人間や社会に対する研究をしなければ社会それ自体のグランドデザインは描けないと考えるからである。これについては別記事でさらに詳しく述べようかと思う。)

では、現実の社会を捉える力はどのようにして培えば良いのだろうか。私は、これこそが近年軽視されているように思われる「教養」の役割なのではないかと思う。教養を構成するものの中には「地理」や「歴史」、「文学」、「芸術」など多くのものがあると思うが、なかでも「哲学」はその根幹をなすものであろう。20世紀以降、学問が細分化されその方法論が精緻化されるにつれ、確かに哲学は下火になりつつあるように思われる。しかし、人間のあらゆる決定に価値観が介在する以上、その価値観それ自体を見つめ直す哲学の役割は再認識されてしかるべきであろう。

参考文献
竹内薫(2019)「ファインマンが日本の物理学者に感じた『物理的な違和感』の正体」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67933

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