#13 昔書いたレポートってたまに読み返したくなるよね

パソコンのメモリが重くなってしまった。こういうときはファイルを整理する。「これ何だっけ?」と思って確認のためにファイルを開く。実はこれが罠だったりする。作業が進まなくなるのだ。

大学1年のときの「現代日本政治」という講義のファイルを見つけてしまった。小汚い大教室でのざわついた夕方の講義を懐かしむ。ざっと400人近くが押し込まれていただろうか。今は見られない光景だ。リバタリアンになる前の、政治(学)に対して社会問題の解決をまだ期待していた頃のテスト対策ペーパー。テストの内容は「15回の講義の中で登場した概念を手がかりに政治とは何かを論じよ」というテーマであり、電子機器以外の持ち込みはなんでもありだった。試験前にこれを本番では丸写ししようという公認カンニングペーパー(それカンペって言うの?)を作成したのだった。それにしても、テスト内容も結構覚えているものだなあ。

ゴミ箱にドラッグ&ドロップする前に、拙い文章ではあるが完全に記録を抹消するのももったいないので、全文を以下に転載する。(それにしても一文が長すぎて読みにくいことこの上ないな?)

私は、政治には、政治によって社会の問題を解決したり、共通善を追求したりするという目的としての側面と権力闘争という手段としての側面があり、この二つが相互作用することによって政治というものが成立していると考えている。そこで、政治とは何かについて述べた著名な学者の発言について引用しつつ、政党政治論と国際政治観の観点からこのことを裏付けたいと考える。前者についてはたとえば、プラトンは権力者が善良な政治を行うとは限らないと考えていたことから哲学者が無私なる政治を行うべきと主張しており、また、ロックは人民の同意に基づいて自然権を守ることが重要であると主張するなど、多くの主張があるもののこれらすべての議論においては共通善という観点から政治について語られている。一方で、後者についてもマキャヴェリが『君主論』において武力や権謀術数を駆使することを正当化したり、カール・シュミットが「敵味方をはっきりさせ、力で敵を排除して決定するところに政治の本質がある」と述べたりしている。しかしながら、実際に政治とは何かについてはデビッド=イーストンが「社会に対する権威的価値配分」と述べたことに象徴されるように、その目的たる問題解決や共通善の追求ないし手段たる権力闘争のいずれかによってのみでは政治について語ることはできず、また、この二つは明確に目的と手段に分けられる性質のものでもないように思われる。
国際政治観および政党政治論についてあてはめて考えると、国際政治観には大きく分けてこの講義で扱ったリアリズムとリベラリズムの二つがある。まず、政治の手段としての権力闘争を政治の本質に据える考え方であるが、これについては国際政治観でいえばリアリズムがこれに相当すると考えられる。ところで、E.H.カーが国際政治においてはリアリズムとリベラリズムの両方が必要であると述べていたように、政党政治についても政治の目的である理念と、それを実現可能なものにする政治手段、すなわち権力闘争の両方が必要となるのである。なぜなら、国際政治におけるリアリズムや政党政治における権力闘争については国際政治では軍事力や経済力といったパワーであり、アナーキーゆえに異なる価値観や社会をもつ各国がパワーを追求し衝突するように社会というものは本来無秩序であれば闘争は避けられないものであるように、政党においては異なる価値観や支持層の社会背景をもつ各政党がその政治権力である議席をめぐって選挙で争うからであり、また、国際政治において安全保障が最重要の課題であるのと同様に選挙は議会制民主主義において必要不可欠であり国民の意思を問うために最重要であるからである。一方で、極端な軍備拡大や権力闘争は共通善として信ずるものを追及するために必要ではないばかりか、軍備拡大は安全保障ジレンマを、極端な権力闘争は国民による不信感を引き起こしかねないものである。そこで、国際社会の場合には経済的交流や国際レジーム、それに民主主義といった方法により国際政治の目的である国際益を追求するリベラリズムが、また、政党政治においても多様な利益や意見をまとめ上げ、マニフェストとして掲げ、掲げたマニフェストを政党の存在意義として設定することが必要となってくるであろう。
以上のことから、政治とは、共通善と自らが信じるものを追求するための権力獲得の闘争であると同時に、権力を追求することの正当化のために自らが共通善と考えるものを主張する行為であると考える。

過去に執筆したものを見ると、この頃何を読み、どんな思想に影響を受け、何を考えていたのかがよくわかる。どうやらマキャヴェリやカール・シュミットなんかを読んだりしていたのはこの頃だったらしい。

思想形成の萌芽のようなものが見えるのも興味深い。政策を「目的」と捉え、政治を「目的のための手段」として捉える見方である。プラトンの哲人政治の構想を引用しているあたりには、当時は民主主義政治への懐疑は今ほど強くなかったにせよ、後々の思想形成を予言しているようにも写る。

しかしまあ、「共通善」という単語が何度となく登場しているあたりは今の自分から考えれば信じられないことだなあと思う。いくら高校3年の年の誕生日プレゼントがサンデルの『これからの正義の話をしよう』だったとしても、だ。このように、考え方が変わってしまったなあとしみじみするのもそれはそれで面白い。

日記ほど読んでいてこっぱずかしくなく、それでいて勉強にもなるのは、過去に書いたレポートやゼミ発表用レジュメを読み返すことの効用なのかもしれない。

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