#21 オリンピック賛成派の弁明(リバタリアンの場合)

つくづく私は「悪魔の代弁者」なのだと思う。与党不支持という立場表明も、日本においてリバタリアンの立場にコミットすることも、オリンピック開催賛成を表明することも、どれも少数派の立場だ。まして与党不支持にもかかわらずオリンピックの開催に賛成するとなれば、少数派の中でもさらに少数派の立場だ。それでいてこの立場を楽しんでいるフシさえあるとなれば、側から見れば単に逆張りしているだけのように見えないこともないのかもしれない。ついでに言えば、リバタリアンの立場でオリンピックという政府活動を支持するのは一貫性が取れていないように見えるかもしれない。

だが、投資スタイルが逆張りを採用することが多いとはいえ、単に逆張りのためにオリンピックに賛成しているわけではない。それに、リバタリアンの立場ながらオリンピックに賛成することだって、あくまで一貫性を重視した結果だ。

そもそも「オリンピックに反対する」と一言で言っても、「2013年時点で反対する」のと「2021年時点で反対する」のは全く意味合いが違ってくる。IOC総会で「TOKYO」と言われ、「お・も・て・な・し」が流行語になるほど舞い上がっていたあの頃、世論はどうだったか。オリンピック賛成派は「東京オリンピックが復興の象徴になれば」と期待していたはずだ。それと対になるオリンピック反対派の言い分も、「原発事故が収束していないのに」という意見や「復興が進んでいないのに」という意見が支配的だった。2021年はどうか。オリンピック賛成派は「今更やめるわけにもいかないでしょ」という立場であり、「オリンピック反対派は反日」とまで言っている人もいる。これに対し、オリンピック反対派は「外国人選手が入国することで変異株が持ち込まれる」や「オリンピックによって人流が増加することが感染拡大につながる」といった、感染症対策の問題を根拠にしている。時とともに前提は変わるはずだ。

だが、リバタリアンが2013年時点で反対する理由はおそらくそうではない。ここで「リバタリアンが」反対する理由は「おそらく」そうではないと書いたのは、私自身2013年時点ではリバタリアンではなく単なるリベラリストであり、オリンピックについては「これでリーマン以降暗くなってしまった世の中が元に戻れば」程度の理由で賛成派であったからである。仮に今の私が2013年に戻れるとするならば、「原発事故が収束していないのに」という理由ではなく、「復興が進んでいないのに」オリンピックをすることによる建設資材価格の高騰と、「そもそもこの財政難の日本でオリンピックに対する財政支出を正当化するロジックはあるのか」という理由によってオリンピックに反対しているはずだ。残念ながらこの視点はおそらくリベラリストにはない。

では2021年にオリンピックに賛成する理由はなにか。これはまさに、オリンピック反対派が「外国人選手が入国することで変異株が持ち込まれる」や「オリンピックによって人流が増加することが感染拡大につながる」といった、感染症対策の問題を根拠にしていることにある。感染症対策を名目にオリンピックを中止に追い込めば、他のイベントだって中止にしないと筋が通らなくなる。ロッキンのようなイベントだけではない。飲食店や本屋への締め付けだって許してしまう。本屋や芸術を守ろうという声がかつて上がったが、どうして本屋の経営は感染症対策より優先順位が高いのにアスリートやイベント運営会社の経営は感染症対策より優先順位が低いという線引きができるのか。自分が痛まないからアスリートやイベント運営会社はどうでもいいという、そんなご都合主義を許容することはできない。自由を守るためのオリンピック賛成なのだ。

加えて、ハナっから嘘とでたらめと無計画性にまみれたオリンピックだった。それでもなおオリンピックに賛成したのは私を含めた世論だ。そうであるとすれば、その責任は自ら取ることが筋というものだろう。オリンピックが感染拡大を招こうが、そうした不利益は甘受すべきものだ。それを反省という。痛い目を見ない限りこの国の無責任な政治はおそらくどうにもならないし、長期的にはその方が安くつく。

さらに、「外国人選手が入国することで変異株が持ち込まれる」という意見にも強い危惧を覚える。過去の差別への批判によって小山田氏など多くのオリンピック関係者がオリンピック開会式への参加を断念することとなった。ところで、である。オリンピック反対派は「外国人選手が入国することで変異株が持ち込まれる」というが、これは差別ではないのだろうか。2020年3月頃には日本人含めアジア人が欧米各国でウイルス扱いされ差別され、ときには暴力まで受けていた。それと同じことをしていることにどうして気づかないのかなと思う。小山田氏の過去の言動はあまりにひどい。だが、小山田氏をあそこまで激しく批判できるほど、オリンピック反対派も綺麗に生きているのか、差別とは無縁なのかといえば私はそうは思わない。本来的にリベラルというのは理論武装が必要なはずで、だとしたらある程度の知性は当然要求される。リベラルからリバタリアンへの転向組だからこそ、それなのになぜ一体そこに気づかないのか、知性をどこかに投げ捨ててしまったのかと怒りを覚えてしまうのだ。

追記: オリンピックの話は開催中に多分あと何回か執筆することになると思う。

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