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大正ロマン柄(帯)×古典柄(着物)

2023年7月初旬。
誕生日祝いもかねて、夫がコンラッド東京のアフタヌーンティーに連れて行ってくれました。

この日のコーデの主役は、鮮やかなピンクの地色に、織りで大きな百合の花が描かれた絽の名古屋帯。
THE 大正ロマンなアンティークの帯です。


アンティーク着物にあこがれて

着物好きの間では、大正から昭和初期につくられた着物(帯も含め)を「アンティーク着物」と呼んでいます。

今年は終戦から78年目。
アンティークと言えば、本来は100年以上経過したものを指す言葉ですが、第二次世界大戦期をはさんで、戦前と戦後で着物文化が大きく変わったことから、戦前の着物は総じて「アンティーク着物」と呼ぶのです。

ショッキングピンクは日本の伝統色?

ブーゲンビリアのようなピンク色が、70年以上も昔のものだと思えないほどポップで、心ゆさぶられますね。

現代の着物のエンドユーザーは、お茶やお花、踊り、三曲などの芸事をたしなんでいらっしゃる場合が多いため、当然、落ち着いた上品な色柄が好まれます。
なので、新作の展示会でこんなド派手なピンク色の着物や帯を見かけることはまずないです。(例外は振袖ぐらいでしょうか)
しかし、アンティークの着物や帯では、ショッキングピンクがびっくりするほどたくさん使われています。

じつは、この紫みのある明るい鮮やかなピンク色というのは、「萩色」や「躑躅つつじ色」などと言って、平安時代からその色名がみられる伝統色なのです。

今日、宮にまゐりたりつれば、いみじう、物こそあはれなりつれ。女房の装束、唐衣からぎぬ、折にあひ、たゆまで侍ふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽葉くちばの唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。

清少納言『枕草子』138段より

くすんだ赤みがかった黄色の唐衣、薄紫色の裳に、赤紫系のかさねを着た女性たちの姿が目に浮かびますね。

とは言え、こんな個性的な強い色、合わせる着物がむずかしい。
この日は、明るいブルーの地色に紅型びんがた染めの単衣ひとえ着物を合わせました。

琉球紅型か、京紅型か

紅型びんがた」とは、琉球(沖縄)の伝統的な型染めの染色技法です。
その美しさに魅せられた栗山吉三郎さんが、紅型と京友禅を融合させ、京友禅の染料を使った「京紅型」や「和染紅型」と呼ばれる技法を確立させたと言われています。

こちらの着物は、昭和中頃につくられたものだそうです。
栗山工房が設立されたのは、1952年(昭和27年)のこと。
沖縄は1972年(昭和47年)までアメリカの占領統治下にありました。
琉球紅型か京紅型か、違いがわかりにくいですが、絵柄の雰囲気と年代から京紅型ではないかと思います。

涼しげな流水に四季を感じさせる花柄が染められていて、わたしのお気に入りの一着です。
帯の地模様にも流水が描かれているので、着物と帯で水の流れのリズムを合わせてみました。


柄 on 柄、色 on 色でOK!

現代の着物では、「着物の柄のなかの1色をとって、帯の色を合わせる」というコーディネートが定番ですよね。
わたしが娘時代に母から教わったコーディネートメソッドが、まさにそれ。
「織りの帯に染めの着物、染めの帯に織りの着物」というコーディネートの方法も、母から教わりました。

『大正ロマン着物女子服装帖』(大野らふ、河出書房新社)によると、こうした今、定着しているコーディネートメソッドは、戦後に洋服の影響を受けてつくられたもので、昔の着物にはしっくりこないのだそうです。

アンティークの着物や帯は、たくさんの色や柄が入っているのが特徴。
色と色、柄と柄を重ねるのが昔の着物の魅力を引き出すコーディネートなのですね。


「時代」を旅する

わたし自身、よそゆき着としてしか着物を着なくなった洋服世代ですので、アンティーク着物には「なつかしさ」よりも「新鮮さ」を感じます。
自分が経験していない時代に対する好奇心から、見ているだけでもわくわくしてきます。

わたしの母方の祖母、恭子さんは大正13年(1924年)生まれ。
恭子さんが少女期を過ごした頃こそ、今で言うアンティーク着物が「新作」として次々とつくられていたわけですね。

恭子さんはわたしが生まれるずっと前に亡くなっていますので、「おばあちゃん」とは思えず、白黒写真を見ながら、どんな女性だったのだろうと想像しました。

恭子さんは娘時代、洗足高等女学校に通っていたそうで、1942年(昭和17年)の卒業証書が遺っています。
女学生だった恭子さんも、こんなショッキングピンクの着物や帯を着て、お芝居を観に行ったりしていたかも?
女学校の学友たちと一緒に撮ったと思われる写真を見ますと、まさに「アンティーク着物」はこう着こなすのだ、と教えてくれるお手本のようで、当時の華やかな装いが白黒でも十分に伝わってくるのです。

しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、戦況が悪化する1943年(昭和18年)の秋以降になると「決戦です、すぐお袖を切ってください」という断袖運動が行われ、長い袖に太い帯の和装の女性は街頭から消えてしまったそうです。
18歳になった恭子さんも、憲兵に注意されないよう、お袖を内側に縫いこんで袖丈を短く直したり、「もんぺ」を美しく着る工夫をこらしていたかもしれませんね。

亡き母や祖母たち、たくさんの女性たちが長い年月、いとおしんできた着物や帯。
過ぎ去った人生への敬意をもって、昔の着物や帯をわたしも大切にしていきたいと思っています。

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