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古典の解釈は言葉尻を拾うだけじゃない

※チェンナイの自由が丘だと思ってるエリア(クリスマスにはイルミネーションあり笑)

ヨガの経典の解説って
ほとんどがサンスリット語の語源
または言葉の意味ぐらいのもので

古典って、短い言葉で表されてるから
解釈が微妙になっちゃうんだよね

それって仏教でもそうらしく
時代ごとのスーパー頭がいい人が

現代人に合わせて読み解いて
それが、その時代の人々の助けになるそう

本質的なものが、時代を超えて
人種を超えて、ユニヴァーサルに
誰にでも当てはまるってのは本当で

ただ、読み解くためには尋常じゃない
明晰さが必要で

埃をかぶった古典を
言葉の持つ意味ぐらいで読むのは
誰にでもできることで

並の学問がそれなんだよね

そんな、巷の理解と

サンスクリット語と六派哲学に精通してる
クリシュナマチャリヤ師の解釈の違いを
いくつか紹介してみるね

まずは、ヨガというか
インド哲学のゴール、サマーディ

「三昧」というワードが解説書では
見かけるよね

で、なんなのそれってことでググると

精神を集中し、雑念を捨て去ること
一心不乱にその事をすること

そうそう、その通りで
だったらそう書けばいいのに
「三昧」とか使わなきゃいいのに

解説本に解説が必要とか
もはや時代にあってないわけさ

で、うちの伝統での
サマーディの認識を英語で表現すると

(meditative, total) absorption:没頭
(deep) contemplation:熟考

からの「完全な理解」みたいな感じだよ

・・・

次に、ヨガスートラ1章2節の中で
ヨガの定義として使われているニローダ

こちらは「止滅」とか使われてるよね

一方、うちの伝統では
マインドの5つの状態のひとつで

  1. クシプタ : 動揺している、落ち着きがない、注意散漫

  2. ムーダ : だるい、重い、愚鈍、理解力の欠如

  3. ヴィクシプタ : 1と2が交互に起こるけれど、時々は明晰

  4. エーカーグラター : 一点集中(努力している)

  5. ニローダ : 完全に明晰、集中している(努力していない)

つまり、マインドがアグレッシブだったり
逆に重だるい状態みたいな、このことを

fluctuation:揺らぎ、変動
って表現するんだけれど

そんなマインドの状態を
stilling:静める、落ち着ける
ことをヨガっていうんだよね

での頑張って集中している状態でもなく
リラックスしながらもキレキレっていう

それがニローダなの

言葉の意味としては確かに
restraint:抑制、制止
control:制御

なんだけれど、ここから拾ってきて
そのままに理解するって
ちょっと表層的すぎるよね??

意味を表すのに
まさにぴったりな言葉を選んでるのが古典

なんだけれど、そんな言葉を紡いで
短く構成されている古典だからこそ

読み取ることができる
スーパー頭がいい人の存在が
重要なんだよね

っていう話をしてみました

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